じゃのめ見聞録  No.63

   布施柿の心


2005.12.1


  布施柿という言葉を知ったのは、50歳をすぎてからであった。テレビを見ていたとき、どこかの地方でそう呼んでいる柿があることを偶然に知った。そんな柿があるんだ、と思った。大げさではないが、軽いショックを覚えた。

 布施柿というのは、木になった柿の実を全部取ってしまわずに、いくらかは残しておいて、鳥たちへの「お布施」のようなものにしている柿のことである。鳥たちのことを考えて柿を残しておくというのは、考えてみたら、すごい発想だなと思った。かつて私の家の庭にも柿の木があった。でも布施柿という言葉は知らなかった。ひょっとしたら、近所の人はみんな知っていたのかもしれないが、私は知らなかった。知らなかったというだけではなくて、たぶん、もっと若い頃に聞いていても、こんな言葉に心を止めることはできなかったかもしれないと思う。

 この布施柿という言葉の何がすごいかというと、そこに「自分の周りには他の生き物が居るんだぞ」ということをさりげなく教えてくれているところであろう。私はこの言葉を知ってから、それまでの秋の稲刈りの後、刈り残した穂はもったいなので丁寧に拾っていたのに(まさにミレーの『落ち穂拾い』の絵のように)、鳥が食べるかもしれないと思って、無理に全部拾わなくなってきている。

  布施柿の心とは、全部取らないで、少し残しておく心のことだが、残す、というのは、微妙な心構えだと思う。あげるとか、めぐむとかいうのではなく、そんな恩着せがましさや、やってあげているというものではなく、ただ残しておこうとする心の動きである。それは、ものを残すということだけはなくて、人間の心に中に、他の生き物のことを思うゆとりを残しておくという意味でもあるような気がする。布施柿、こんなたった三文字の言葉を知っただけで、こんなにも心が広がるのは、不思議な感じがする。

                                 京都新聞 2005.11.18