じゃのめ見聞録  No.62

   芥川龍之介『蜘蛛の糸』考
―「あなた」の移ろいやすさについて―


2005.11.10


 芥川龍之介の『蜘蛛の糸』には不思議な光景が描かれている。人殺しをするような男が、道に這う蜘蛛を踏みつぶそうとして、ふとそれを止めてしまう場面である。そこの箇所は次のように書かれている。

 この犍陀多と云う男は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥坊でございますが、それでもたった一つ、善い事を致した覚えがございます。と申しますのは、ある時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘蛛が一匹、路ばたを這って行くのが見えました。そこで犍陀多は早速足を挙げて、踏み殺そうと致しましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無暗にとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。 
                                 『芥川龍之介全集2』ちくま文庫

これは御釈迦様が極楽の蓮の池のほとりを歩いていてふとその下の地獄を見たときの光景である。その時、その血の池に、「犍陀多」という男が浮いたり沈んだりしているのを見つけたのである。なぜこの男だったのかということは気になる。他の男ではダメだったのか。蜘蛛のようなちっぽけな虫ではなく、馬や牛のような大きな生きものを助けてきた者たちがいたのではないか・・・。でも、御釈迦様は、なぜか、この小さな虫を助けた男に目を止められた。続きはこう書かれている。

 御釈迦様は地獄の容子を御覧になりながら、この犍陀多には蜘蛛を助けた事があるのを御思い出しになりました。そうしてそれだけの善い事をした報には、出来るなら、この男を地獄から救い出してやろうと御考えになりました。幸い、側を見ますと、翡翠のような色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけて居ります。御釈迦様はその蜘蛛の糸をそっと御手に御取りにたって、玉のような白蓮の間から、遥か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれを御下しなさいました。
                               『芥川龍之介全集2』ちくま文庫

結果は、読者のよく知っている通りである。せっかく助けてあげようとして、御釈迦様が下ろした蜘蛛の糸に気がついて、犍陀多がよじ登ってきたまではよかったが、途中で自分以外の罪人がその糸をよじ登ってきているのに気がついて、大声でこう怒鳴ったのである。「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。おさわめ前たちは一体誰に尋いて、のぽって来た。下りろ。下りろ。」と。「その途端でございます。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急に健陀多のぶら下っているきま所から、ぷつりと音を立てて断れました。ですから健陀多もたまりません。あっと云う間もこまなく風を切って、独楽のようにくるくるまわりながら、見る見る中に暗の底へ、まっさかさまに落ちてしまいました。」と。
 作品では、地獄の血の池のイメージや、暗い空に垂れ下がっている一本の糸や、それに群がって登ってゆく無数の罪人のイメージなどが有名であった。が、私はなぜか最初の蜘蛛を助ける場面が心に残り続けてきた。これは、いったいどういう場面と考えればよかったのだろうか。
作品では、御釈迦様が、犍陀多が蜘蛛を助けた事があるのを思い出して、こう考えたと書かれていた。「それだけの善い事をした報には、出来るなら、この男を地獄から救い出してやろうと」と。ふつうに考えるなら、ええっと思わないわけにはゆかない。一匹の蜘蛛を踏みつぶさなかったことが「それだけの善い事をした」と言われるようなことに値するのかと思ってしまうからだ。
 彼は「人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥坊」なのだ。そうとうな極悪人である。そんな罪が、たった一匹の蜘蛛を助けたことの「報」として帳消しにされ、「極楽」へ引き上げてもらえることになるとしたら、世の中おかしなことになってしまうのではないか、と思われないだろうか。結果的には、犍陀多が、欲を出し、自己中心の言動をとって、また元の地獄へ堕ちてしまったのだが、御釈迦様には、こういう男には、どんなに救いの手を伸べても、救われることにならないことがわかっていたから、気まぐれにこういう「慈悲」をされただけなのだと考えるべきなのか。

作者は、そういう比較をしたかったのだろうか。大きな罪が、小さな善事で帳消しになることがある、というような罪の比較を描きたかったのだろうか。あるいは、そういう比較を思いついたとしても、そんなものはもともと成り立たないのだよ、ということを描こうとしていたのだろうか。
私は少し違う感想をこの作品にもっていた。それは「ふと蜘蛛を助ける」というようなことが、誰にでもあるのではないかということについてである。
そのことを考えるとき、なぜ犍陀多はあの時蜘蛛を踏みつぶさないようにしたのか、思いを巡らせてみる必要がある。蜘蛛を踏みつぶさないというとき、いったいどういう心の動きが働いているのだろうか、と。
生きているものを、つぶしたり、殺したりするのをためらうという時は、どういう心の動きがあるのかという問いである。
私たちは、道ばたで見た一本のきれいな花を、折ってもって帰りたいと思うときと、そのままここに置いといてあげようと思うときがある。あそらく、同じような心の動きが働いている。その「ふと思う」とか「ふと感じる」という時に、いったい何を感じているのかということである。犍陀多は、その時、こう感じたと書いてある。
 「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無暗にとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」
ここで「命あるものに違いない」と言っているところが問題なのであろう。いったい「命あるものに違いない」というところの「命あるもの」とはどういうイメージのことをいっているのか。ここでは、「蜘蛛」だけど助けるというのではない。それが「命あるもの」と見えたので助けるという事を言っているようなのだ。
 普段なら、「蜘蛛」とか「虫」というようにしか見ていないものが、ある時ふと「命あるもの」に見えてしまうことがある。おそらく、ここではその瞬間が描かれていたのではないだろうか。その瞬間のことをなんと言えばいいのだろうか。
ここで起こっていることは、「蜘蛛」や「虫」のことではなく、何かしら名付けようのない私たちの「生」のもつ双体性の片割れを、そこに見てしまうような瞬間のことではないか。その「自分と連動する片割れ」を、私たちは「命がある」と感じることがあるのではないか。そういう場合は、名付けようがないので、私たちはその相手を「あなた」と感じることがある。そこにはまるで「もう一人の自分」を感じるような雰囲気がある。
これは微妙な感覚である。高校で蛙の解剖の実験をするときに、動いている心臓を見て、この蛙を「動いている」とか「生きている」と感じることはあっても、「命あるもの」と感じることは、そんなにないのではないか。つまり、生物学的な「生命」を知ることはあっても、そこに自分と連動するような、自分の片割れのような生を感じることはないだろう。そんなものを感じていたら、解剖などはできないだろう。むしろ理科の実験では、蛙を「自分と連動する片割れ」と感じてはいけないのである。
 こういうふうに「相手」を「自分と連動する片割れ」として感じてしまう時に、その「相手」は「あなた」として感じ取られるのだと私は主張してきているのである。そしてそういうありかたを「カップリング」と呼んできたのである。その「カップリング」とし感じ取れる相手を、この作品では「命あるもの」と呼んだのではないかと私は考える。私はそういうふうに「カップリングとしての命」を感じる瞬間、つまり「あなた」を感じる瞬間を「至高性」あるいは「至高の瞬間」と呼びたいと考えてきた。
そういう瞬間は、草木を見ても、虫を見ても、人を見ても、景色を見ても、ふと感じることが起こりうる。そして、そうして見たものを契機にして、不意にそこに「あなた」を感じてしまうことが起こりえることを私は感じる。

『蜘蛛の糸』のあの場面もきっとそういう瞬間を描いていたのだと私は感じる。問題は、そういう「至高の瞬間」を持つことがあるのに、そういう瞬間はいつまでも持続しないと言うことだ。ある瞬間に「命あるもの」として感じた「蜘蛛」も、気がつけばもうただの「蜘蛛」として、足で踏みつぶす対象になっている。
 逆に言えば、どんな極悪人でもある瞬間には「あなた」を感じ、相手に「命あるもの」を感じることがあるのに、別な時には、そういう「命」をあっさりと殺してしまうことがある、ということなのだ。
 そういう意味で、「あなた」は移ろいやすいものだと私は感じる。いつでも、どこでも、絶えず「あなた」を感じることができる、というような状態を私は想像することができない。
『蜘蛛の糸』という作品は、そういう意味では、「至高の瞬間」を持つことのできるものが、同時に極悪人として生きるという、その人間存在の矛盾を描いている作品になっていると私は思う。