じゃのめ見聞録  No.61

   「ネット・ジャングル」と「狩猟者」
―消費社会と身体―


2005.10.10


   

   自殺希望の中学生が、自殺サイトで知り合った男に殺されるというニュースが、この夏(2005年)繰り返し報道された。その報道の説明を聞くだけで胸くそが悪くなるようで、思わずチャンネルを変えてしまうことが何度もあった。その「説明」とは、その男が自殺希望の人物の首をしめ、苦しんで死ぬまでの過程に性的な興奮を感じ、その苦しむ声をテープに取って聞いていたという「説明」である。こうやって書き写すのもおぞましい感じがする。
 しかし、この事件は「変」なのだ。内容が異様で変態的で猟奇的という理由からではない。というのも、この事件には「死にたいと希望する者」がいて、「その希望を叶えてやった者」がいたという構図になっていて、ある意味での「殺人事件」には収まらないものがあったからだ。「死にたい」と願っている者を望み通りに殺してやって何が悪い、という構図がここにある。ほとんどの「殺人事件」は、死ぬことに無縁な人が、無念にも殺されてしまうから「殺人事件」になってきた。ところが、「死にたい人」にその望みをかなえてあげるのだから、それを「殺人」と呼んでいいのか、というようなこと。
 もちろん、私たちはその後の報道で、この事件がそんな「自殺幇助事件」や「自殺お助け事件」なんかではないことは知っている。あるいはときどきマスコミで取り上げられる、病院の医師が関与する「安楽死事件」のようなものでもないことを知っている。この事件に多くの人が感じていた「気持ちの悪さ」は、この事件が、被害者の死ぬまでのあがきに快楽を感じる、「快楽殺人」の相を見たからである。しかし、と私はそこで感じてしまう。「快楽殺人」にしても、この事件はだいぶ「変」な事件ではないかと。
  ある人はいうかもしれない。「自殺を希望する」ということと、「殺されてもいい」と思うことは同じではない、と。「この事件」の実態はまだまだ解明されなくてはならないところがたくさんあるのだろうが、テレビや新聞の報道では、この加害者は「自殺希望のサイト」に「自殺者のふり」をして入り込み、自分も自殺するように見せかけていたらしい。そうして「自殺志願者」を安心させ、連れだし、自分のお気に入りの形で殺してしまったというのである(マスコミで報道されただけの内容から見ているだけであるが)。しかし、そんなふうに「殺されてもいい」と被害者は考えていなかったのではないか、自分と同じにように「自殺」を考えている人と苦悩を共にして、一緒に「あの世」に旅立てるのならと思って、その加害者と行動を共にしていたのではないか、と、普通なら考えるところである。そういう懸念もひっくるめて、でもこの事件は何かしら「変」だと私は思うのである。


  

  私が「変」だと思うのは、この事件には「消費社会」の抱える「身体」の問題が、これでもかというほど関係している事件のように思われるからである。「消費社会」という意味を、ここでは「商品がジャングルとなった社会」のことと考えておく(「ジャンル」はボードリヤールの例えだった)。「商品」が「密林」のように生活を覆い尽くしている社会。そんな「新しい密林の時代」の中で、特に私は、「情報」や「ネット」と呼ばれる商品が絡み合う異様な空間のことを今考えている。電子テクノロジーの世界。それは実際の暮らしの中の一部分を占めるだけの世界なのに、ある人々の暮らしの中では大部分を占めるようにもなってきている。問題は、そんな「消費社会」の「ネット・ジャングル」に足を踏み入れた人々が、そこが「ネット・ジャングル」であることに気づくことができない時代がきつつあるのではないかと私はいま感じている。
 「ジャングル」とは「見渡すこと」ができない密林化の空間である。そこでは、「見渡せない」ことをいいことに、「生き物たち」は、さまざまに巧妙な「わな」を仕掛けて生きるようになってきている。かつての「ジャングル」で、カムフラージュや擬態や保護色や警戒色などで生き物が生きていたように、新しい「ネット・ジャングル」でも、そこに棲む生き物は、自分を様々な姿にカムフラージュしたり、逆に目立つ格好をしたりして生きている。そういう「偽装」を通して、他の生き物の視界を惑わしながら、時には気づかれないように、時には気を引いたりしながら近寄り、「相手」を「餌食」にする機会を狙っている。
  そこで近年マスコミをにぎわす事件の数々を見ていると、通常の暮らしの中では起こりえないことが起こり問題になってきていることに気がつく。つまり「ネット・ジャングル」という存在を媒介にしないかぎり起こりえないようなことが起こってきていることについて。その典型は「オレオレ詐欺」だ。何千万という金額の被害が報告されているこの事件も、「電話」と「振り込み」という、二つのテクノロジーを悪用した犯罪である。
 どうしてそんなもの引っかかるのかと不思議に思う人がいるかもしれない。かつて、電話やネットが、それを使う者に、ただ便利で有益であった時代に生きていた人は、これが「悪用」されるとは思いもしない。しかし、「ネット」が「ジャングル化」すると、その見渡すことのできない密林化の中で、今までには考えられなかった巧妙なわな、詐欺が仕組まれるようになってきているのである。そして何よりもおぞましいことは、そこで「捕食」されるのが、動物ではなく「人間」になってきていることである。「人間」を食い物にする新手の「狩猟」が展開されてきているのだ。「ネット・ジャングル」では、まさに「人間」を狙う新しいタイプの「狩猟者」が出現してきているのである。
 はじめに取り上げた「自殺志望者殺害事件」(と勝手に名付けさせてもらうが)も、まったくその手の事件ではないか。そもそもこの事件は、中学生が「自殺の希望」をインターネットのサイト(「自殺サイト」などと呼ばれているが)に載せたところからはじまっている。自分では「自殺したい気持ち」をただそういうサイトに載せたつもりなのだろうが、それは「ネット・ジャングル」の中で、「自分の居場所」を周りの生き物に知らしめるように「発信」したことになっている。この「発信」があって、この中学生は「標的」としてキャッチされ、捕食者に「餌食」にされることになった。
  問題はこの捕食者が、「自殺志願者」にカムフラージュしていたことであるが、狙らわれていたのが「オレオレ詐欺」のような金銭ではなく、「人間の身体」であったことが、いままでにないおぞましいところであった。しかし、繰り返して言うが、私はそのおぞましさに加えて、さらにおぞましいと感じたのは(それを「変」という言い方で言っているのであるが)、捕食した獲物を、電子テクノロジーの中に「保存」して、あとで何度も繰り返し味わっていたという実態についてである。
  ヒョウはしとめた「獲物」を木の上に上げて保存し、後で味わうのであるが、「ネットジャングル」での「狩猟者」は、その狩った「獲物」をビデオや携帯に「保存」し、後で何度も味わっていたのである。
 こういう事件のおぞましさを嫌というほど感じさせられたのが、あの奈良幼児殺害事件であった。犯人の新聞販売店員の男が逮捕(20041230日)され、その犯罪の中身が明らかにされたとき、その内容もたとえようのない非情で残忍なものだった。この事件では、小学1年の少女が下校途中に誘拐され惨殺されただけではなく、携帯を通して親に「娘はもらった」というメールとその惨殺した遺体の写真を送りつけられていたのである。もし、「携帯」という電子テクノロジーがなければ、親はそんな残虐な殺され方をした我が子の姿を見せつけられることもなかったはずである。しかし、時代的には、この頃ようやく写真のやりとりできる携帯が普及しはじめていた時期であった。その頃に、このような事件が起こってしまっていた。この事件で人を驚かせたのは、死体を「ネット」の中に「保存」したということと、それを後で自由に取り出し、眺め、味わい、人にも見せ、さらにネットを使って送りつけるということを思いついたということである。こういう例えようのないおぞましさに「悪魔の仕業」という「比喩」を使えばいいのだろうか。しかしこの時の加害者は、まるで「ハンター(狩猟者)」気取りだったことも、私たちはよく覚えている。
  そういえば、20044月に長崎の小学校で起こった「同級生殺害事件」も、ほとんど「ネットの事件」の様相をおびていたのではなかったか。「ネット」のホームページでの書き込みや書き換え、嫌がらせが、「凶行」の裏側にあったのではないかということが再三指摘されてきた。「ネット」の中では、誰が何をし、何を考えているのか、わからない。「ネット」の中では、弱虫が強がるそぶりを見せたり、ひどいことをするやつが「やさしさ」を装ったりする。男が女を装い、年長者が年少者を装ったりする。何者にでもなったふりができ、それはネットの中では確かめようがない。事実「ネット」の中では誰が「味方」なのか見分けられないのだ。そして疑心暗鬼が生まれ、それが高じると殺意になる。そこで形成されるネットサバイバルの感覚。そして「狩り」の感覚が目覚めてくる。


 

  神戸の連続児童殺傷事件(1997年)の後、「なぜ人を殺してはいけないのですか」とたずねた高校生に、そんな問いを発するべきではない、と返答した作家、大江健三郎の発言に対して、当時さまざまな文化人が反論を寄せていた。大江の返答は「おかしな」返答であったのだが、今となったら、「こういう問い」を発する世代が、この頃に確実に生まれてきていたことへの、大江の世代なりのせいいっぱいの警戒心が働いていて、こういう答え方になっていたのではないかという気がする。「こういう問い」を発する世代とは、いわゆる「ネット・ジャングル」の感覚に足を踏み入れだした世代であり、新しい「狩猟者」の意識を持ち始めた世代のことである。


 そういう「ネット・ジャングル」の中では、生き物(身体)の感覚がずいぶん希薄化し浮遊化してきている。浮遊という意味を文字通りに「飛んでいる」イメージで見ると、まさにネットに現れるものたちは、いろんな意味で「カモ」のように存在しているところがある。詐欺師たちは、ひっかかる人物を「カモ」と呼んできたが、まさに「カモ」のようにネットの中を浮遊する人たちが出てきており、それを「カモ」として狙う狩猟者が確実に生まれてきていたのである。「なぜ人を殺してはいけないのですか」と問い始めた若い人たちは、悪意があってそういう問いを立てているのではなく、「人間」が「カモ」のように見えるようになってきた時代の可能性を問うていたのだという気がする。

  「カモ」という観念は、私はもう少し積極的に考察してもいいのではないかと思う。「カモる」と言葉は、街角で同級生や弱い者から金品を巻き上げる連中が、以前から使っていた言葉ではあったが、「ネット」の中では、「カモ」はもっと非情な位置を与えられるようになってきている気がする。「ネット」の中では「お客」はしばしば「ターゲット」と呼ばれたりする。つまり「お客」はネットの中では「商品」なのであるが、「商品」として捕らえられる「お客」は、つねに「標的」であり「カモ」なのである。「新しい狩猟者」たちは、その仕組みにはすっかり気がついているのに、そこが「ネット・ジャングル」になっていることに気がつかない者たちは、自分たちがその中で「カモ」として存在していることに全く気がつかないことが起こっている。

  この「カモ」の観念を考えることで、さらに気になることをいえば、「ネット」の中では、自分で「自分の身体」を「ターゲット」のように見てしまうことが起っていることについてである。ここには二通りの「ターゲット」の意識がある。一つは、自分の身体を「変形」「改造」させ、それを「見せびらかす」ことで、意図的にみんなの「標的」になるようにし向ける道筋である。その変形には、「過剰な化粧」から「ダイエット」「シェイプアップ」、「整形」まで、さまざまである。この道筋では、自分を目立つように標的にして、売り込むための筋道である。

 もう一つは、「不用」として感じられるように「身体」を「標的」にし、その身体を「廃棄処分」するように意識する道筋である。いわゆる「自殺」の道筋である。

 この二つの道筋のどちらを選んでも、「身体」は「商品」がそうであるような「標的」として意識されている。

  こういう視点から見ると、近年、問題になっている「リストカット」の奇妙な現状もいくらかは理解できるのかもしれない。普通、手首を「切る」というのは、その人が「死のう」としているからだと思ってしまうのだが、「リストカット」する女性たちは、「死のう」としているわけではなく、むしろ「生きたい」からそういうことをするのだという。手首に浅く傷をつけ、血をみることで、スカッとする気持ちになったり、何かをやってのけたという達成感にひたったりするのだという。その結果、手首に残った傷跡を、「使う」のである。それを親や恋人に「見せつけ」て、自分のつらい立場を訴える。さらにエスカレートすると、そうしてできる何本もの傷を、ネットで「見せる」ことをする。自傷と電子テクノロジーとの連携。そうしてたくさんな人の注意を引きつける。傷がひどければひどいほど、人々は関心を寄せる。

 そういう行動は、「自殺」の行動より、入れ墨やピアスを入れる人たちの行動に近いといえる。耳や鼻や舌や腹に穴を開けたり、肩に入れ墨をするかわりに、手首に線の模様を引く、という感じなのである。

 そういう意味では「自傷」や「自虐」も、「ネット」の中に出せば「商品」のように注目してもらえるし、それが過激であればあるだけ、「すごいこと」として「ターゲット」にしてもらえる。その時すでに、自分でそういう「身体改造」する自分を「カモ」にしているのである。

  もちろん、ここで「リストカット」や「身体改造」する人たちを「悪く」言っているわけではない。むしろ「新しい狩人」として、そういう人たちが今の時代の中に立っている姿を私は感じている。それが良いのかどうかは別の問題である。事実として、自分の身体をターゲットにして、傷つけ、追い回すような「狩人」が出現してきていることは確かなのだ。身近な女性たちを見ても、自分の身体の一部分を「余分な肉」とか「多めの肉」と呼んで、それを「的」にして「処分」する「狩人」として日々暮らしているのではなかったか。「新しい狩人」は確かに出現しているのである。その多様な「狩り」の姿は、改めて認めなくてはいけないだろうと私は思う。


     

  ここで考えるべきことは何なんだろうか。消費社会がモノをジャングルのようにしてきている時代の中で、そういう時代なんだと言ってすますことなのだろうか。こういう見方の提案者の一人だったボードリヤールへの私の不満は、彼が「そういってすましている」ところにある。私は彼のニヒリズム的な発想はあまり好きではない。確かに時代は「ネット・ジャングル」化し、その視点を押さえないと理解できないおぞましいことが次から次へと起こってきている。そのことは確かである。どうしてそこまで人間は人間に対して非情なことをすることができるようになってきたのか、とそこで問いたくなる。意地悪な学者なら、人間は今までもそんなことをしてきているんだ、今始まったこっちゃない、というかもしれず、ボードリヤール流にいえば、人間が商品になったんだから、当然そういうことが起こるんだ、ということにされて終わるだろう。

 しかし、ネット社会、ネットジャングルは、ボードリヤールが力説するようには世界を覆い尽くしているわけではない。それは世界の部分にすぎないのに、そこに参加してしまったものは、急速に「ターゲット」化されたり、「狩猟者」になったりしてしまっているのである。その世界に入ると知らず知らずそういう「生き方」を学ばせられる仕組みになっているのである。もしそこに「学習」の機構が働いているのなら、私たちは別な「学習」の機構をそこにきっと対峙することができるはずなのだ。その対峙の仕組みをもっと解明することが必要なのではないか。

 おそらく、今問われている「新しい狩猟者」のイメージは、ボードリヤールなどのいう消費社会の文脈とは別なところで読み解き直し、改めて「狩猟者」として存在することの意味を問い直すことが、いま早急に求めらているように私は感じている。そこで一つ思い浮かべるのは、今も昔も人間は「狩猟者」であったということを、認識しなおすことを目的で書かれたオルテガの『狩猟の哲学』西澤龍生訳 吉夏社2001である。彼はそこでこう書いていた。


 「人間という人間のほとんどすべてが狩りをすることを欲して、この仕事にある幸福の可能性を見てとっていた。」

  「狩猟は戯れではなく、いかに奇怪千万だろうと、人間というものに深く根ざした永久に切なる渇仰である。」

 「狩猟とは、ある動物が自身の種族より致命的に劣った種族に属する他の動物を、生け捕りにするか殺すかして、我が物にするために行う事柄である。」


  この反文明の思想家の見つめていた「狩猟者」と、時代の先端をいく消費社会論の描く「狩猟者」の双方を睨みながら、来るべき狩猟者のイメージを考えないといけないのではないかと私はいま感じている。そうでないと、日に日に巧妙に次の「犠牲者=捕捉者」が作られる社会を私たちが黙って支えてゆくことになる気がしているからだ。

                              『精神医療 40』 批評社2005