じゃのめ見聞録  No.57

野の百合、空の鳥をみなさい
―「周辺」の偉大さを見つめる教科への変革を―


2005.5.1



 読みましたよ。読ませてもらいましたよ。「周辺教科」と呼ばれる教科に関わる先生方や生徒、親たちの、とまどいというか、悔しさというか、哀愁というか・・・。30分でどうして絵が描けるのという先生。もっと、楽しい音楽を、という生徒。どうして尻上がりできなきゃならんの、という親御さん。家庭科の成績ってどうやってつけているんですかあ、という恨みにも似た疑問。そういうものを読んで、「総評」を書きなさいと言うお達し。それぞれの「立場」の不遇な思いを聴いてしまったあとで、ここで、その「全体」について何を言えばいいのか、わかる人がいたら教えてもらいたいものです。

 わたしはというと、こんな言葉の思い出からしかはじめることができません。それは高校時代に「野の百合、空の鳥を見なさい」という言葉が妙に心にとまっていたという思い出です。聖書の言葉ですが、詳しいことは全然知りません。ただ、「栄華をきわめたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった」と言い回しは覚えています。この句のどこに惹かれていたのか。たぶん、一輪の花が美しい「色」でできているということ、というよりか、世界が「色」でできているという驚き。その色のついたものを私たちが食べているんだということ。そして空を飛ぶ鳥。青い空に、紙飛行機のように飛ぶものがいる。「羽」というものの不思議。ダビンチは「羽」を工作で創ろうとしていましたよね。その鳥のさえずり、美しい音色、『小鳥はなぜ歌うのか』(岩波新書)という題のすてきな本もありました。こうした「色」や「食」や「空」や「羽」や「音色」に触れるためには、「外」に出なくてはなりません。

 たぶん「野の百合、空の鳥を見なさい」という言葉を、私は聖書の教えとは関係なく、お前は「外」へ出てみなさい、あるいは「外」を見なさい、「外」を歩きなさい、というふうな誘いの言葉として勝手に感じとっていたような気がします。おそらく机の前に座って、本を広げるだけの生活に対して、自分で自分に「野の百合、空の鳥を見なさい」と言い聞かせていたような気がします。

 こうした「色」、「食」、「空」、「羽」、「音」、「飛」、「歩」・・・というのを考えてみると、これが悪名高い「周辺教科」、「音楽・図工・体育・家庭科」が相手にしてきたものではないかと、改めて思わずにはいられません。暮らしの中に、意図的に「色」「食」「空」「羽」「音」「飛」「歩」を持ち込むことをうながす教科。たぶん、かつてのこれらの教科の楽しみだったのは、この時間帯に「机」と「教科書」と「教室」から離れて「外」へ出られる楽しみがあったからではなかったか、と思います。

 校舎の誰もいないところを見つけて画用紙を広げ、空を描き、木を描き、建物を描いていた記憶。調理室で何でもないみそ汁を自分たちで作って食べたときのおいしかったこと。どんぐりを拾いにクラスみんなで近くの山へ登ったこと。たぶん、これらは「教室」から出られたことの記憶と結びついています。でも、ただ「教室」から出ることが問題だったのではないようにも思います。「外」に触れることをうながしてくれることが大事だったのかもしれない。

 「外」といっても、地理や歴史で習う、ヨーロッパとかギリシア時代というような「外」のことではなく、英語で習うアメリカやイギリスというような「外」のことではなく、算数のように、色も匂いもしない特別な「数」というような「外」の世界でもなく、理科のような望遠鏡でみる宇宙や、地球といった壮大な「外」の世界、顕微鏡下で見える極微な「外」の世界のことでもない、うんと身近な、自分の座っている教室の「周辺」に広がる具体的な世界に気づかせてくれるもの、その「窓」が実は「音楽・図工・体育・家庭科」といったような科目にあったのではないか。その目的が「野の百合、空の鳥を見よ」というキャッチフレーズで言われてきたことにつながっている・・・。

 でも、これらの教科が今や「不当に評価」されてきていると、教師も生徒も親も感じてきています。なぜ? 進学のために優先される「四教科」に押されてきたから? もちろんそれも大きい理由なのでしょうが、私は少し違ったことも感じています。それは、この「周辺教科」に関わる人たちに「野の百合、空の鳥を見なさい」というような、まさに「暮らしの周辺」を見つめる太古からの教えが、今ひとつ引き継がれていないような感じがしているところです。「周辺」のもつ豊かさを見つめる発想抜きに、こういう教科を「教え」ようとすると、ただの「息抜き」や「遊び」の時間(本当はそれも大事なのですが)のように見下されて、どう転んでも割の合わない教科にされてゆくように思われます。たぶん、音楽はどうで、図工はどうで・・と個別に考えることの必要性もあると思いますが、それら「周辺教科」と呼ばれてきたものをひっくるめて、まさに「暮らしの周辺」を見る眼差しの「偉大さ」を位置づけ直す試みがもっとあってもいいのではないかという気がしています。教える側が、これらの教科群のもつ大きな位置、つまり「暮らし」の「周辺のもつ偉大さ」を計る思想をもたないと、何かしら生徒にも親にも、その教科の「弱さ」ばかりが見られてゆくような気がしているからです。花や鳥って、実際にはとっても「強く」生きているものなのにね。


     『おそい、はやい、ひくい、たかい 25』ジャパンマシニスト社2004.11