じゃのめ見聞録  No.56

家庭科とジェンダー


2005.4.1


 はじめに 「家庭科」なんていらない、という発想

 

  日本の「家庭科」は、さまざまな思いを組み入れながら大きな変貌を遂げてきた教科である。それは変革の道のりであったけれど、同時にその道のりは、教科を取り巻く内外から絶えず批判をあびてきた道のりでもあった。それはまた「家庭科」が必要であるという思いと、「家庭科なんていらない」という思いのせめぎ合いの歴史でもあった。事実、「家庭科」の教員免許を出している大学の中ですら「家庭科」なんていらないと感じている教員は少なくない。このように教員の間でも「家庭科」への認識はさまざまである。こうした「家庭科」が、久方ぶりに大きな注目をあびる出来事が起こった。文科省が2000年に、男女共同参画社会を総合的・計画的に形成していくための、「男女共同参画基本計画」(1)を策定し、この基本計画の10項目めの中で、「学校教育全体を通じての指導の充実」と、「家庭科教育の充実」のふたつを具体的にあげてきたからである。
 のちにみるように、国は戦後40年近くも、性別役割を推進させる「家庭科」を作ってきたのに、今度は、「ジェンダーに過敏な視点を組み込んで」「これらの教育に携わる者が男女共同参画の理念を理解するよう、意識啓発等に努める」ことをはっきりと打ち出す政策に180度転じてきたのである。
 なぜ今ごろになって「家庭科教育の充実」を国を挙げて言うようになってきたのか、その理由も追及されねばならないが、この論文では「ジェンダー」に関係する範囲で、「家庭科とジェンダー」が抱える問題について考えてゆきたい。

 

 

 1章 「家庭科」の変貌

 

 「ジェンダーと家庭科」との関係を考えるためには、まず「家庭科」が必要であると考える人たちと、「家庭科なんていらない」と考えてきた(いる)人たちとの、その「家庭科」の意識の類型を見ておきたいと思う。というのも、のちに見るように「家庭科」は、その内容の変貌の問題もあったけれど、とくに「ジェンダー」に関わる領域でたえず「問題」が起こってきていたからである。このことを考える際にあらかじめ注意しておきたいのは、「家庭科」と「家政学」の異同についてである。文科省は、今度の「男女共同参画基本計画」の中でも「家庭科教育の充実」ははっきりとうたっているが、「家政学の充実」というようなことを言っているわけではない。戦後つねに、中等教育の「家庭科」と、大学の「家政学」とは、コインの裏表のように連動してきていたのに、今回文科省は大学での受け皿のイメージには言及していないのである。わずかに、こういう風に書いているだけである。「高等教育機関における教育・研究活動において、ジェンダーに敏感な視点が組み込まれるよう努めるとともに、様々な学問分野への女性の参画を促進する」。もし「家庭科教育」が必要であるというのなら、その分野を深めるはずの大学での研究機関のイメージがもっと強調されていないといけないのだが、しかし、今回それは「ジェンダー教育」の指摘ですまされているような感じを受ける。ここにも大きな問題点があるのだが、しかし、こういうことになってきた背景には、従来の大学で行ってきた「家政学」の衰退、「家政学」の名称変更の歴史があり、「家庭科教育の充実」がすんなりと「家政学の充実」にならない理由があった。そのことの理解もどこかで押さえながら、ここでは戦後の「家庭科」の変貌、つまり「家庭科」に対してなされてきた批判の眼差しを五つの類型に分けて見ておくことにしたい。

 

  一つ目。戦前の「家事・裁縫」のイメージとの重なり。

  そもそも「家庭科」という名称の科目は、戦後の新憲法の元に1947年教育基本法が発足し、その中に「家庭」「職業」という新教科としてはじまったものである。もちろん、戦前にも(といっても、明治の教育令の元による「裁縫」や、大正時代の「家事科」までさかのぼることはここではしないが)、似たような教科があった。それは1943(昭和18)年に、「家事・裁縫」が統合されてできた「家政科」であり、この時に「家政」「育児」「保健」(栄養、調理、衛生、看護を含む)「被服」の四科目が分割されていた。その科目を引き継ぐような形で戦後「家庭科」が立ち上がってきた。それゆえに、「家庭科」というと、戦前の「家事・裁縫」が連想されることがかつてはあり、特に「家」にとどまり「良妻賢母」としての女性を作る科目としてイメージされるきらいがあった。そういう「思い込み」によるイメージの「家庭科」が、今でも「家庭科」嫌い、「家庭科」批判の要因の一つになっている。

 

 二つ目。フェミニズムからの男女特性論への批判。

  1950年代には、社会の技術革新が進み、家庭電化も進行し、従来の家事仕事から解放される女性達の社会進出や高学歴化が進行してきていた。そんな中で、世界の科学技術競争に対応させるために、当時の文部省は1957年「技術科」を設け、男子にその科目を、女子には「家庭科」を選択させる動きを取るようになる。そうした女子だけに義務づけられる「家庭科教育」に対して、男女特性を問題にする女性の間から批判が出始めてきた。

  1956年には「家庭一般」が新設され、学習指導要領では「女子の特性にかんがみ、家庭生活の改善向上に資する基礎能力を養うため、「家庭一般」をすべての女子には原則として履修させるものとする」という方針が出される。さらに1970年の改訂には「家庭一般は全ての女子に履修させるものとし、4単位を下らないようにすること」とされ、完全な女子必修化が実現されることになる。

 こういう施策に対して、1960年代の後半から新左翼運動を背景にした「第二派フェミニズム」が広がり、特に女性の側から男女特性に基づく「家庭科」批判がされはじめる。

 

  三つ目。周辺教科という批判。

  1970年代、戦後の高度成長期の中で、高校進学がほぼ義務化され、大学進学率も伸び、そうした進学や受験に関係する科目(国語、算数、理科、社会、英語)などは重要視されるが、その他の、音楽、図工、体育、家庭科は「周辺教科」と言われ、「主要教科」より一段低くみなされることがでてきていた。さらにそうした「周辺教科」と呼ばれるものの「成績のつけ方」の曖昧さも指摘され、それが進学のために不利になることも出てきていた。そこから、親や教師も「家庭科」を軽視する雰囲気の中で、受験者も「家庭科」はいらないと感じることが出てきていた。「家庭科」なんて「授業」で教わらなくても、暮らしの知恵として、普段のテレビや雑誌からそのつど手に入れることができているじゃないか、ということも言われてきた。

 

  四つ目。共に学ぶ家庭科の創設とそれへの批判。

  1970年代になると進学率の増加に伴い、男女別学への反発も加わり、男女共修や共学が求められ、1974年には「家庭科の男女共修をすすめる会」が発足し、1977年改訂の学習指導要領では「男子向き、女子向き」の表現が削除され、1985年の国連の「女子差別撤廃条約」を批准したことも影響し、1989年には高等学校で「家庭一般」「生活技術」「生活一般」から一科目4単位が男女必修となり、さらには1994年には高等学校で今までになかった家庭科の男女共修がはじまることになる。

  さらに1999年に「男女共同参画基本法」が公布され、基本理念として@男女の人権の尊重、A社会における制度又は慣行についての配慮、B政策等の立案及び決定への共同参画、C家庭生活における活動と他の活動の両立、D国際的協調の骨格が示され、男女共修としての家庭科は今までに見られない評価を受ける時代になってきた。

 しかし、こうした男女共修の家庭科が進む中で、今度は「新しい歴史教科書をつくる会」の会員のような、「日本らしさ」を求めるグループの中から、男女を同じように教育するような「家庭科」作りは、日本の伝統文化が作り上げてきた「男らしさ」「女らしさ」を失わせるものだと批判を受けることにもなってくる。

 

 五つ目。国による「家庭科」の指導。

  見てきたように、戦前・戦後の歴史の中で、国の施策は「家庭科」を女子教育に限ったり、男女共修にしたりと、舵取りを変更してきた。これほど大きな変更を受けてきた教科は「家庭科」以外にはないのである。こうした国の施策の変化だけをとらえると、国はいかにも、女性たちの声を聞き、フェミニズムや国連の動きに応じるような変更をしてきたかのように見える。しかし、国の動きの背後には、少子化による将来の労働者不足への危機管理の対策が見えており、少子化の歯止めとして男女をあげて「家庭」の充実を重要な目標に掲げざるを得なくなっていったという事情のあったことが見えてくる。

  だからといって、文科省は「家庭科」の教科書を自由に作ってよろしいとしているわけではない。文科省自身が掲げている「ジェンダーに敏感な視点」を取り込んで、斬新な教科書を作ってよろしいとしているわけではない。明らかになってきたのは、文科省が求める「家庭科像」があって、それに外れるような「家庭科」の指導は、国の施策としても許可されないことがわかってきたのである。文科省は「一対の男女が核となってつくる家庭像」を基準に据えつつも、世界で広がりつつある同性同士の結婚などの「家庭の多様性」を認めるような記述は検定の中でまだ許可していなかったからである。ここには、ちゃんと子どもを産める家庭が理想の家庭像として想定されている。そこには国の危機管理が反映しているのである。

 こうしてみてくると、「家庭科はいらない」と言ってきた人たちの「家庭科」のイメージから文科省が「必要」だと考える「家庭科」のイメージまでさまざまであったことが見えてくる。

 

 

2章  梅棹忠夫の「家庭」論

 

  家庭科の変貌の経過を見てきたのだが、その経過の中で、私が顧みなくてはならないのが「ジェンダー論」からの「家庭科」批判の発想についてである。その批判は表だっての「家庭科」批判として現れたわけではないが、「主婦論争」として「家庭」と「女性」を巡る論議の中で暗に批判的に展開されていた。ここでは、この「主婦論争」の中に出てきていた、ユニークな発想の論文を取り上げて、「家庭とジェンダー」の関係を見ておきたいと思う。

 その論文は、「妻無用論」1959、「母という名のきり札」1959という当時『婦人公論』に掲載され大きな反響をよんだ論文である。書き手は梅棹忠夫である。この二つの文章はのちに上野千鶴子編『主婦論争を読むT全記録』勁草書房1982に収録された。「妻無用論」1959の骨子は、電化製品の普及にともなって「主婦」のしていた仕事が減少し、「妻」と呼ばれてきた役割が無用になるというところにある。(2)そして結論として、こういうことを指摘していた。

  

 家事労働がしだいに専門業者や機械に肩がわりされて、家庭の主婦の手からはなれてゆくとすれば、サラリーマソ家庭の主婦は、しだいに妻としての存在意義の基礎をうしなってゆく、ということにならないだろうか。

   

 妻という名のもとに女に要求されたさまざまな性質は、やがて過去のものとなるだろう。あるいはまた、女として必要とされた性質も、おおくはおきさられるだろう。女の男性化というといいすぎだが、男と女の、社会的な同質化現象は、さけがたいのではないだろうか。そして、今後の結婚生活というものは、社会的に同質化した男と女との共同生活、というようなところに、しだいに接近してゆくのではないだろうか。それはもう、夫と妻という、社会的にあいことなるものの相補的関係というようなことではない。女は、妻であることを必要としない。そして、男もまた、夫であることを必要としないのである。(3)

 

  この論文の何が驚異的かというと、この文章の書かれた時期が1959年であり、書き手が男性であったというところにある(梅棹忠夫39歳)。この時代にここまでのことを書いた男性(実は女性の中にも)は、やはりいないのである。今読めば当たり前のことが書かれているのだが、この当たり前のことを、1959年の時点で、当時出回りはじめた電化製品の動きをとらえて、これらがいずれ「主婦の肩代わり」をすること、そのために「妻」と呼ばれる存在が「無用になる」と断言した人はいないのである。実際に電化製品が大衆化されて出回るのはもっと後のことであったのだから、この恐ろしく予言的な文章に上野千鶴子がいたく感心したのは理解できるであろう。とくに論文最後の「男と女の、社会的な同質化現象は、さけがたい」とか「今後の結婚生活というものは、社会的に同質化した男と女との共同生活に接近してゆく」と書かれた下りは、当時の「性差」論にとらわれないあまりにも今日の「ジェンダー論」の発想の先取りをしているところが読み取れて、上野千鶴子は驚嘆してしまうのである。

 「母という名の切り札」という文章も、論旨はシンプルで、限りなく明快であった。そこにはこう書かれていた。

 

 じつは、女のひとにはしばしば誤解があるようだが、子どものことというと、妊娠から分娩、育児、そして成人するまでのいっさいをひっくるめて、それを女の問題、母の問題とかんがえる傾向があるが、それはすこしまちがっている。女の特権は妊娠と分娩までであって、あとは女だけのことではない。現代は、機械や製品ばかりでなく、小児科医学、教育施設の発達などもかんがえにいれると、育児労働は大はばに杜会によって肩がわりされているのであって、男手ひとつで子どもをそだてることだって、できないわけではない。

 「妻無用論」の論法を踏襲して、母無用論などといいだせば、また総反撃をくうだろうが、子どもにとって母の絶対的な必要性は、なくなりつつあるようにおもう。すくなくとも、世のお母さんたちが自分で主張するほどのことはなくなってきた、というのが、真実ではないだろうか。(4)

 

  子育ては「母」がするものだと従来は言い過ぎてきているが、社会的な受け皿(子育ての施設や制度)が充実してくれば、「母」がしなくてはならなかった仕事は大幅に減るのではないかとここで梅棹忠夫は言っている。今日では「子育て支援」というような言い方でいわれているものに、実際に国が力を入れ始めるのは1990年に入ってからであるから、そういうシステムが「母親」の仕事量を減らしてくれることになるだろうということをこの1959年の時点で説いている先見の明には驚かないではいられない。時代は、たしかに梅棹忠夫が予見したように動いてきているのである。

 この二つの文章は上野千鶴子によって再評価され、さらに『梅棹忠夫著作集 第9巻』中央公論社1991の解説(5)を書く中で、戦後の「家庭学」史の中の位置づけ直しが試みられている。

  確かに今から見ると、梅棹忠夫の論文には先見性があったと驚嘆しないわけにはゆかないが、だからといって、私は梅棹忠夫の予見を上野千鶴子のように「評価」することはためらわれる。もちろん、当時の誰もが彼のように書くことは実際にできなかったことは私も認めるものであるが、だからといって一見すると、フェミニズムや後のジェンダー論をすっかり先取りしているかのように見えるこの「予見」には、でも重要な何かが抜けているようにどうしても思えるのである。

  このことをちゃんと言うためには、なぜ梅棹忠夫の論が、この当時にこんなに「予見」的に見えるようなものを書くことができたのかを見ておかなくてはならない。

 

 3章 「個人」論と「ジェンダー」論

 

 「性差」の視点をめぐって展開された「主婦論争」には、たくさんな論客がかかわっていたにもかかわらず、その中の一人の男性の書いたものだけをここで取り上げるのは公平さに欠けるように見えるかもしれないが、しかし、その選択にはいくつかの妥当性があると私は考える。

  梅棹忠夫が、将来「妻」も無用、「母」も無用になる時代が来るというような乱暴な論理を展開できたのには、ある一つの前提があったからである。またその前提がないと成り立たない論理でもあった。その前提は、人間を「個人」と呼ばれる存在として理解できるという前提である。再度引用すれば彼はこう書いていた。「男と女の、社会的な同質化現象は、さけがたい」「今後の結婚生活というものは、夫と妻という、社会的にあいことなるものの相補的関係というようなことではない。女は、妻であることを必要としない。そして、男もまた、夫であることを必要としない」と。多くの人は気が付かれていると思うが、ここには、近代固有の論理が使われている。つまり「人間の存在の仕方」を「あいことなるものの相補的関係」として見る以上に、「社会的に同質化した存在」、つまり「差異のない個体同士」として見ようとする見方である。これは人間の存在を「個人」という単位でみる「個人主義」と呼ばれてきた発想の考え方である。そして、この「社会的に同質化した個体(男と女)」という見方が、のちの「性差(ジェンダー)論」の先取りになっていることをこれから見てゆくことになる。

  ちなみにいえば、近代は、それまで地域共同体や部族の構成員(階級や身分の中の一員)としてしかみなされなかった人たちを、「個人」という法の前では平等な構成員としてみなす理念を作りだしてきた。こうしてできあがった「個人」というイメージ・考え方を、私たちは今日、とってもわかりやすいもののように受け取っている。しかし今私たちが簡単にイメージしている「個人」という考え方が、どういうふうにできあがっているのかをちゃんと受け止めることは大変むずかしいのである。(6)

  たとえば、この考え方は戦後の出発点になった『日本国憲法』にも採用されている。

 

第一三条【個人の尊重と公共の福祉】

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 

第一四条【法の下の平等、貴族制度の禁止、栄典の限界】

国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

 

  すでにここに「性差」によって人を区別してはならないという原理がうたわれている。ここには、「国民」が「個人」として尊重されることと、その個人が「平等」であることがうたわれているからである。もし、ここで指摘されていることを、文字どおりに受け止めれば、「法の下の平等」という意味の「平等」は、お皿分けられた同じ大きさのケーキのように、差異のない、「皆同じ」ようなものとしてイメージされるのであり、その「同じもの」を、ここでは「個人」と言い換えているように読み取れる。憲法では、そういう意味において、法的には「個人」は皆同じ扱いを受けなくてはいけない存在なのであると指摘している。

 19世紀に、こうした「個人」という概念を手に入れてから、近代はさまざまな変革をもたらしてきた。「身分制度」の廃止や、肌の色で区別する「人種差別」撤退の動き、宗教の違いによる差別をしないことなどであるが、それが20世紀になって、少数民族の差別や、男女の差別の撤廃の運動と連動し、多文化主義的な動きも生んできた。「法の前の平等」の理念からすれば、人種、階級、宗教、性、言語などの「違い」を強調することは「差別」することになってきたのである。

  こういう観点からみれば、梅棹忠夫の主張は、そんなに奇異なことを言っていたわけではないことが見えてくる。彼はまさに近代の産物である「人間を個人として考える」という発想を、「社会的に同質化した男と女」という言い方でとらえかえし、その視点を「家庭」の人間関係の中に適用しただけであることが見えてくる。彼だけがそういうことをしたのは、まさに彼しかそういうことができなかったからではなく、多くの人は彼のように臆面もなく「家庭」にまで「個人主義」を持ち込むことにためらいを感じていたことがあっただけなのである。

 ここで改めて「個人」とは何ものなのかと問うてみると、いろいろわからないことがでてくる。社会が「個人」の寄り集まりと考えられたり、表象されたりする時の、そのわかりきった「個人」という概念が、「同じ者同士」というふうに考えることがどういうことなのか、実際にはうまく考えられないのである。「人間」は一人一人みな違っているじゃないかという実感が一方にあるからである。十人十色と言われてきたように。

  繰りかえして言うことになるが、「個人」とは、法の前での平等な個人ということであり、それは理念的には等しく皆同じである、という観念を含んでいる。つまり「個人」という概念には、「平等」とか「同じ」という観念が深く結びついている。そしてさらにそこには「単体」「単独」「個体」「一個」というイメージが付加されている。そこには丸い球や四角い積み木のブロックのようなものとしてイメージされてもおかしくはないものがある。それらもみな「平等」に「同じように」扱われるものだからである。

  しかし、率直に言って「人間という存在」は、積み木のブロックのようなものではないし、同じ鋳型で作られたつるつるしたプラスチック製の人形のようなものでもない。そういう意味の「皆同じ」というイメージの「個体」ではない。もっと独特の差異を持ち合った存在であるはずなのである。しかし人間を「個人」として見つめる思想は、人間の差異よりも同質性を見つめることを推し進めてきた。「ジェンダー論」もそうした「差異(とくに性差)」をもつ人間のイメージを拡大、利用してきた文化に異議を申し立てる運動として展開してきたのであり、差異のある個体をイメージしすぎることに強い抵抗を示してきた。そうした「差異(とくに性差)」を問題にする「ジェンダー」と呼ばれてきた概念について、上野千鶴子は次のように説明していた。

 

 フェミニズムが「セックス」に代わって「ジェンダー」という聞き慣れない用語を持ち込んだのは、一九七〇年代のことである。それ以来、性差をめぐる議論は、大きなパラダイム・チェンジを被ることになった。「ジェンダー」はもともと性別を表す文法用語だが、七〇年代フェミニズムは、自然的とされ、したがって変えることのできないとされた性差を相対化するために、この用語をあえて持ち込んだ。今日、フェミニズムのなかでは「セックス」は「生物学的性別」、「ジェンダー」は「社会的文化的性別」を指す用語として定着している。(7)

 

 私たちの多くも、たぶんこういう意味で「ジェンダー」を理解してきているのだが、フェミニズムの中には、こういう理解が不十分であるという批判もでてきている。(8)でもここでの「ジェンダー」の理解は、これでいいと思う。そして、振り返ってみると、こうした「社会的文化的性別」という概念と、梅棹忠夫が1959年の時点で指摘していた「男と女の、社会的な同質化現象はさけがたい」という考え方とは、どこかで連動していることが見えてくる。というのも、そこにあるのは、「社会文化的な差(性差を含む)」で区別されない「個人」という概念の強調だったからである。問題は「家庭」や「家族」の中で、それぞれが「差異のない個人」、つまり他とは何の差異も示さないプラスチックの人形のような個体として本当に意識し合えるのかということである。

  事実、「家庭」というのは、太古から「差異をもつ人間の存在」の寄り集まって生きる場としてあったものである。「性差」はもちろんのこと、親と子、兄弟姉妹、幼児と年寄り、若者と年配者、健康者と病者、親族などなど様々な「差異」をもった人たちが寄り添って暮らしていたからである。「家庭」はまさに、それら「差異を生きるもの」たちの寄り合う場であった。

  しかし「家庭」は長い歴史の中で、そういう「差異を大事にする」だけではなく、「差異」を利用して老若男女の差別化を図り、それを「家父長制度(家制度)」として「男」に有利なような仕組みを保持してきた面もあった。そういう意味での「性差(ジェンダー)」は批判され、強く否定されなくてはならなかったのは確かである。しかし、そうした家制度の批判の結果、「家庭」や「家族」が均質な個人の寄り集まる場として意識される度合いが強くなり、ここに、「個人」という観念と、「家族」という観念との関係が「ずれ」を起こす時代がきたのである。つまり「家族」という場を生きる人間のイメージと、「社会」という場を生きる「個人」と呼ばれる人間のイメージの間に、言い難い溝ができてきたのである。その二つの考え方の間が、だんだんと折り合いがつかなくなってきたのである。

 

4章 「家庭科」と「ジェンダー」   

 

  ここで、いままで触れてこなかった「家庭科」と「家政学」との関係について少しだけ触れておきたい。家政学を「Home economics(家庭経済学・家事の政治学)」と理解するのか、「Domestic science(家庭科学・家事の科学・生活科学)」と理解するのではだいぶ事情が違ってくるし、日本家政学史に立ち入れば、それこそ山のような議論につきあいをしなくてはならなくなるから、それはここでは避けなくてはならない。ただここで考えておきたいことは、「家政学」を「家事の政治学」として考えるなら、家庭や家事で扱われるものが、いかに世界の政治的経済的な動きと連動しているかが追及される学問にならなくてはならないし、もし「生活の科学」というふうに考えるなら、家庭や家事が扱うものを「科学的」に研究する学問になるということである。もちろんその「科学」というイメージを、従来の「理科系としての科学」ではなく、かつてのマルクス主義が唱えていたような「社会科学」まで広げるなら(たとえばエンゲルス『空想から科学へ』のように)、「家政学」は「生活の社会科学」というふうになるだろう。同志社女子大学でも1995年「家政学」を「生活科学」と名称変更したときに、「科学」を指向し、自然科学と人科学を融合したような学部を構想しようとしていた。

 ただ「家政学」が「家事の政治学」から「生活の科学」を指向する中で、そこでの対象とされる「人間」がどんどんと「個人」になっていったことは確かだと思われる。もともとは「家事―家庭」を見つめる眼差しをもっていた学問が、「個人―科学」を扱う学問に変化していったような感じも受ける。そういう変化の善し悪しをここで言おうとしているのではないが、従来の「家政学」がなぜ衰退してきているのかを考えるためにも、この変化をしかと押さえなければならないことを私は感じているのである。事実「家政学」が名称変更を迫られる時期と、「ジェンダー教育」が台頭してきた時期は連動していたからである。つまり「家政学」が「個としての人間を見つめる学問」に押し切られてゆく過程がそこにあったことを私は感じてきたからである。

  もちろん、私のこういう戦後の「家政学」の変化のまとめ方を良しとしない人たちもいるであろう。「家政学」は衰退してきたのではなく、名称変更をすることでより時代にそう学問として質的な転換をとげてきているのだと考える人もいるだろう。どういうふうに理解するにしても、私が注目しなければと考えていることは、中等教育での「家庭科」と、大学での「家政学」「生活科学」との関係についてである。先にも指摘したように、文科省はこれからの時代の「家庭科教育の充実」はうたっていても、大学の「家政学」に直接にエールをおくっているわけではなかったからである。なぜそんなことになっているのか。大学の「学問」としての基礎付けがなくて、どうして中等教育が充実できるのであろうかとおもうのだが、そこには今後顧みられなくてはならない大事な視点が「問題」になっていたのである。

  この「問題」を考える格好の本が出版されている。鶴田敦子『家庭科が狙われている』朝日新聞社2004である。鶴田はこの中で、「家庭科」の変貌を追い、主に国が「家庭科の教科書」の合否に関与してきている状況を解読しながら、「一般に教科書問題といえば、社会科、公民、地理歴史などの教科に関するもの」と思われてきたのに、「家庭科で、いくつもの検定不合格になった教科書がでたことは、関係者だけでなく、一般の人たちからも意外なことがらとして受けとめられた」と書き読者に注意をうながしていた。ここで問題になるのが、なぜ今ごろになって当時の文部省が「家庭科」の教科書の合否に深く介入し始めたのかということである。鶴田は、家庭科の教科書の記述で、不合格になった箇所を二つ取り上げている。

  @  情緒性が書かれていない

  鶴田らの作った教科書では、家族関係を見直すのに4つの視点を提案していた。「平等性」「自立性」「共同性」「開放性」の4つである。しかし検定では家族の情緒性に触れていないということで不合格になった

  A 家族の機能がはっきりと書かれていない

  多様な家族形態がでてきているというような抽象的な書き方ではなく、家族にはこういう機能があるのだということを、より断定的にはっきりと書きなさい、という指示があった。

  新聞はこうした不合格になった理由を「家族より個」や「家族の多様性」を強調したからだと書いたが、そうではないのだと鶴田は本の中で反論している。だが、当時の文部省に指摘されそうな感じは何となくわかる気がした。鶴田らは最初に「家族の情緒性」つまり愛情性や親密性や友愛性などを家族の特質と書くことができていなかったのである。つまり「ジェンダー・フリー」を意識して教科書を書くと、「家族」を「個人の集まり」として見てしまうことが先に立ち、個人の尊重や個人の自立のイメージをどうしても優先して書かざるを得なくなっていたのである。そこに文部省は「否」を突きつけた。文部省は「家庭」の中で「個人」を強調しすぎる教科書は、「家庭科」としてふさわしくないと考えたのである。

  鶴田は『家庭科が狙われている』の中で「家庭科」の目指すべきものを、「「生活者」の家庭科へ」という言い方に集約させ、「家庭科が生活者を育てる」という視点を強調していた。そしてその「生活者とは誰か」ということについて、「他者と共同して社会を変えてゆく」という「市民的資質」をもったものという視点を強調していた。(9)そして次のように書いていた。

 

 「生活者」とは、家庭生活に価値をおき、家庭生活を大切にする立場から社会に発言する市民です。

 したがって、「生活者」の育成という課題を、すべての教科、すべての教育活動に組み込んでいかなければなりません。その核になるのは、家庭科教育です。しかし、学校教育全体の根底に「生活者」の育成を据えてはじめて、学校は、ジェンダー・フリーの意識形成と男女平等をすすめる場へ、そして国家政策から自立的な「市民」を育成する場へと、転換できるのです。(10)

 

  こういうふうに書かれると、「家庭科」はいかにも「社会を変える」変革者の養成科目のように読まれてしまうところが出てくる。当時の文部省が目を光らせたのは、おそらく生徒をこうした「社会の変革者」や「変革の運動家」のように育てる科目として「家庭科」が位置づけられることに強い警戒感を示した面もあるのではないかと私は考える。

  「家庭科」と「生活者」をつなぐ発想はよいとして、その「生活者」を「社会の変革者」や「変革の運動家」のように位置づけて良いのかどうかは、考えなくてはならない。というのも、中学生や高校生の中には、授業で「社会正義」に目覚めさせられると、いきなり「何か行動をしなくては」と極端な思いに駆られるものも出てくる。教師は授業という名の下に知らず知らず「扇動家」の役割を果たしている場合がでてくるからだ。さらに鶴田は「ジェンダー」についてこう書いていた。

 

 「ジェンダー視点の主流化」とは、あらゆる分野の政策やとりくみを、ジェンダー視点で分析し、男女平等の視点を組み込んで実践していこうというものです。学校教育もまた、ジェンダー視点で問い直し、男女平等をすすめる教育の場へと変えていかなければなりません。(11)

 

  この「ジェンダー視点」を使った「男女平等をすすめる教育」が、「個人主義」教育とどう違うものであるのか、同じものであるのか。「家庭」と「個人」はどういうふうな関係にあると考えるべきなのか。文科省が「個人主義」的に書かれる「家庭科」教科書を合格させないのは、本当に間違っているのかどうか、たくさんな疑問や宿題を残して、現在の教育の現状があるということを、私はここで指摘しておきたい。

 

 

おわりに  「個人」を越える思想をもたなくてもいいのか

 

  「家庭科」が、ある意味での文科省の後押しまで受けて「ジェンダー・フリー教育」の実践の場にされてきていることは、率直に喜ばしいことだと私は思う。しかし、この「ジェンダー・フリー」の視点が、見てきたように「あらゆる差異を取り除いて」人間をとらえる視点にあるのなら、私はそういう視点のもつ半分の真実と半分の危険性に想いを寄せないわけにはゆかない。

 人間の存在(命ある存在はすべてであるが)は、個人や個体として存在しているわけではない。他の生命体や周囲の環界と深く交わって存在しているものである。「交わる」というのは、相手を必要不可欠にして存在しているということである。それは生き物が「単体」として孤立しているからではなく、がっぷりと組み合って存在している「双体」として存在しているからである。私は、私たちを「個体」や「単体」としてしか見つめさせないようにしてしまう考え方を、思想的にはとても貧しい考え方だと感じる。今日、そういう「単体」としての存在の仕方を「シングル」というような名称で呼び、「シングルライフ」「シングルマザー」「パラサイトシングル」などという呼び方に置き換えて論じることが流行になってきている。

 私は、人間の存在の仕方を、そういう「シングル」というふうに見る見方を批判し、「シングルライフ」なんて存在しない、存在するのは「カップリング」としての存在である、という長い考察(村瀬学『カップリングの思想』平凡社2004)を公にしてきた。

  こうした世界と交わり、組み合って存在しているあり方が、もっとも端的に示されてきたのが「性」であった。「性の交わり」と言われてきたのはそういう仕組みのことである。しかし「ジェンダー・フリー」の考え方は、ややもすると私たちの間の「差異」を取り払い「個」「個体」「個人」として同じように数えられる視点を強調する思想になってきていた。そこには「双体」や「交人」としての存在の仕方を意識させにくい発想があった。

  「性差」を利用して、人間を社会的、職業的、身分的に「差別」し「不平等」にすることは許されないことは当然である。そして、教育の中で、そういう「差別」に自覚的になるように育てる必要性もわかる。しかし、だからといって、私たちの存在の仕方が、みんな同等の差異のない体をもっているようにイメージさせる教育として組み立てることには私は反対する。体は「交わり」としてできているのである。それは「男」や「女」として意識されることが多かったが、それは生物学でいう性の交わりのことだけではない。まさに、世界と交わりをもつ「存在としての性」を生きるものの姿のことである。そういう意味において私たちの存在は常に「性的な存在」なのである。そういう「存在としての性」の次元までを「ジェンダー・フリー」にして顧みないというのは、非常に貧しい考え方をしていると思わないわけにはゆかない。そして、そういう硬直した貧しいジェンダー・フリー思考を「家庭科」という教科を使って広げて欲しくないというのが私の今の率直な思いである。

  最近の研究で共感を覚えた論文に『応用倫理学講義5性/愛』(12)の巻頭論文として書かれた金井淑子「講義の七日間ーリベラリズムとパターナリズムのはざまで」がある。金井は丁寧に内外のフェミニズムの歴史を読み解きながら、最後に「母の領域」をもう一度受け止め直す必要があるのではないかという提言をしている。フェミニズムの歴史が批判し続けてきた「母」という主題を、金井は批判されることを覚悟で改めて取り上げているのである。案の定、この本に参加している現代のジェンダー論の旗手、竹村和子が、本の最後に置かれたシンポジウム(13)の中ですばやく不快感を明らかにしていた。今さら何で「母」なのか、という疑問である。「個人主義的」な立場の竹村からしたら当然の疑念かもしれない。しかし私はこの金井の論文を読みながら、従来のフェミニズムが批判してきた「女の特性」としての「母」や「母性」を復活させようとしているわけではないことは十分に読み取れた。そうではなく、金井は「個」として切り離される人間存在の中に、もっと存在論的に組み合って生きている姿を評価する視点が必要なのではないかと訴えていたのである。彼女がこの時考えていたのは「世代間」を繋いでいる仕組み(世代間倫理)のことである。それは私の考えてきた「カップリングの構造」や「存在論的な性」という仕組みに似ている感じがする。

 私たちの存在は「個」としてありつつも「世代を超えて常に繋いできたもの」としてもあり、そういう繋ぎの仕組みを否応なく生きている存在でもあったはずなのである。そういう「繋ぎの仕組み」をはたすものを古来から無骨に「母」や「性」と呼んできていたのではなかったか。それは個人的な「母親」や「男・女」と呼ばれるものだけではなく、それを大きく越える「世代間の交わり」を維持するための巨大な仕組みであったものである。そういう「世代間の仕組み」を金井は今回「母の領域」とあえて呼ぼうとしたのだと考えるのだが、私はそこに倫理学者としての金井の危機感と、そこを抜けるための倫理学者としての誠実な未来模索の跡を見たように思った。それは初めに示した梅棹忠夫の「母という切り札」に描かれたような貧しい「母」のイメージではなく、男も女も「その個体を越えて持っている」「世代を繋ぐ領域」の仕組みのことである。私はこの論文を読んで、まだ倫理学はすてたものではないのだなと改めて感じたし、「家庭科」は個人主義の理念に基づく「家事の政治学」や「生活の科学」だけではなく、もっと「個人」を越える「世代間倫理」とも連携しなくてはいけない学問なのだという思いも強くもった。そこは従来の「家政学」の衰退(と私は考えるが)の原因に関わる問題があると私は考える。というのも「家庭」という「世代間倫理」を複雑に生きる場が、個人主義の理念でとらえきれるわけがないと思われるのに、従来の「家政学」も新しい「生活科学」も、根本の発想は人間を「個人」を単位に見る学問に終始しているところがあり、本来の人間の存在の仕方をうまく問いきれていない弱点をもっているからだと私には思われてきたからだ。そういう大学の学問が、中高等教育における「家庭」の領域をうまく指導できずに、文科省から逆に「指導」を受けることになっているとしたら、それは悔しいかぎりである。

 

 



(1)「男女共同参画基本計画について」平成121212日閣議決定。(政府は、男女共同参画社会基本法(平成11年法律第78号)第13条第3項の規定に基づき、男女共同参画基本計画を定めた)。

(2)(当該箇所を少し縮めて以下に引用する。ひらがな書きは原文通り。)日本の経済がめざましく発達し動いてうごいている時代の中で、衣食住のあらゆる面にわたって、家事労働の肩がわりがおこなわれつつある。たとえば、衣の問題。いままでの家事労働のうち、主婦におおきな負担となっていた洗濯。それが、電気洗濯機の出現によっていっきょに解決した。また、衣類をととのえることも、きわめてかんたんになった。ミシンでぬうというのではない。既製服のよいのが、いくらもでまわるようになった。食についてもおなじこと。調理のための水、燃料にともなう労働が、農村においても、ポンプやプロパン・ガスの普及で解消しつつある。それよりも、調理ということが、どれだけ重要なこととしてのこるだろうか。現代の市場へいってみれば、完全調理品、半調理品の品数がおおいのには、おどろかされる。むかしにくらべて、いまは食事を用意するまでの労働は、はるかにすくないものになってきている。住について、最大の困難はそうじだったが、それも、電気そうじ機の出現によって、よほどらくになった。こうして、つぎつぎに革命的な変化がおこって、家事労働というものの内容とはげしさは、むかしとはよほどちがうものとなりつつある。

(3)「妻無用論」(『女と文明』1988のち『梅棹忠夫著作集 第9 巻中央公論社1991に収録)

(4)「母という名の切り札」(『女と文明』1988のち(『梅棹忠夫著作集 第9巻』中央公論社1991に収録)

(5)この解説はのちに上野千鶴子『近代家族の成立と終焉』岩波書店1994に収録。

(6)「個人主義」の歴史については作田啓一『個人主義の運命』岩波新書1981参照

(7)「差異の政治学」(『ジェンダーの社会学』岩波書店1995

(8) J.W.スコット『増補新版 ジェンダーと歴史学』平凡社ライブラリー2004に追加された「10章「ジェンダーと政治について再考する」を参照。

(9) 鶴田敦子が参考にしていたのは天野正子『「生活者」とはだれか』中公新書1996である。

(10) 鶴田敦子『家庭科が狙われている』朝日新聞社2004

(11) 鶴田敦子『家庭科が狙われている』朝日新聞社2004

(12)『応用倫理学講義 5性/愛』岩波書店2004

(13) シンポジウム「「性に憑かれた/疲れた」近代の終焉」。

 

   『同志社女子大学 総合文化研究所紀要 第22巻』2005.3.31