じゃのめ見聞録  No. 54

「メディア・リテラシー」をけっ飛ばせ


2005.2.1


  1 「メディア・リテラシー」って何?
        〜テレビの裏側を知るということ

 テレビの放送がはじまって50年、日本の子どもにとってテレビとは何であったのか、何であり続けているのか、というのが私に与えられたテーマですが、いろんな時間帯にいろんな番組をいろんな年齢層の子どもが見てきたわけで、それをひっくるめて「子どもにとってテレビとは何であったのか」として考えるというのは、どう考えても私の手に負えるような設問ではありません。
 とりあえず、一つの疑問からはじめます。それは近年目立つようになってきた「メディア・リテラシー」という発想のテレビ批評への疑問です。発想の主旨は「視聴者よ、だまされるな! 賢くなれ!」というものです。たとえば、「ニュースは現実を伝えていない」、「コマーシャルはろくでもない商品をとってもいいもののように売りつけている」、「子ども番組はお菓子やプラモデルのスポンサーが作っているんだぞ」・・・・・なぁーんて批評が、やたらめったら増えてきて、「ドラえもん」を論じるのに、そこで使われたコマーシャルを延々と分析する研究者も現れて、おいおい、本家の「ドラえもん」はどうなったんだよと思うような分析が「学問」とて流通しています。
 テレビには裏があるんだぞ、「やらせ」があるんだぞということ、「女の見方」「男の品定め」も、テレビやコマーシャルを見ることを通して、知らず知らずに君たちがそういうふうに見るように仕組まれているんだよ、ということ、・・・・・、だから、子どものうちから、メディアを鵜呑みにしないで、「裏」をしっかりと批判的に見つめることができるようにすること、それが「メディア・リテラシー」の使命であって、そういうメディア批判の「眼力」をつける教育がいま求められているというわけで、よくわかる主旨です。誰も異論がないような発想です。
 でも、こういう発想からテレビ批判をする人の中に、どこかに「裏を見れない奴はばかだ!」というか、「自分だけは裏がわかっているんだ」というか、「自分だけはすべてをお見通しなんだ」という思い上がりが感じられていやーな感じのすることがあります。

  2 作り物であることが暗黙の了解
        〜だから楽しめることだってある

 たとえば「世界・ふしぎ発見」の黒柳徹子、なんでこの女だけいつもこんなに正解をするのか、なんでこいつだけ誰も知らないような世界のことがわかっているんだ。こいつは神様なのか・・・・・なぁーんていうことを、思う人はたくさんいるのですが、こんな疑問は「メディア・リテラシー」からしたら、なんでもありません。当然、黒柳徹子はあらかじめ答えを教えてもらっているとしか考えようがないからです。でも、そんな批判は公には誰も言わないし、番組も本人も死ぬまで「事実」を言わないでしょう。だからといって、世間で「問題」になるかというと、そんなことはないわけです。延々とこの番組は続いているんですから。
 逆に「問題」が起こるとしたら、こういうふうにしてです。ずっと以前、家族でこの番組を見ていたとき、黒柳の正解の仕方があまりにも不自然で(というのも、黒柳がスタッフからあらかじめ教えられていた「答え」が、黒柳自身も思いもつかないような「答え」であって、なんとなく言ってみたところが、「当たり」と言われて、本人がきょとんとしてたとき)、私は、このやろう!と思って、かみさんや娘につい「答えを知らされてるんだから、もうちょっとましな演技しろよな」などと愚痴をこぼしたことがあったのですが、そんなとき娘がしかめっ面をして「そんなふうに見て楽しいの!」と私に文句を言ったことがありました。
 たかが、娯楽番組で「メディア・リテラシー」を実践してしまった愚かな父親と、そんな「裏」を知ったところで何になるのと割り切っている娘の、テレビを見る姿勢の食い違い。おそらく、「テレビの放送がはじまって50年、日本の子どもたちにとって子どもにとってテレビとは何であったのか、何であり続けているのか」という問いかけへの、一つの切り口がここにあるような気がします。
 最近で私は時間があれば「ガチンコ!」を見るようにしてきました。表向きは不良かやくざか、みたいな若者が、ボクシングの練習をしてプロテストに挑戦するという「ドキュメンタリー」風の番組です。人相というか顔つきだけで、一歩二歩と下がりたくなるような連中が、睨みや凄みをきかせ、悪態、暴言をつきまくり、番組のほとんどをケンカやいざこざですごしてゆく番組進行の中で、なぜか彼らがまとまり、仲間意識や、先輩後輩の意識が芽ばえ、模範的な若者に育ってゆくという、「感動もの」の番組です。製作者は「平成版あしたのジョー」を作りたかったというだけあって、その狙いは当たっているんじゃないかと感じながら私は番組を見てきました。でも、私はずっと「やらせじゃないか」と思って見てきてもいるのです。
 おかしなことは、「やらせじゃないか」と思いながらも、私は時間があればこの番組を見ているし、見続けている、というところにあります。
同じようなことは「あいのり」という恋愛番組にもあります。大学生の多くはこの番組をいつも見ているといっています。私の娘もしんみりした表情で見ています。私は、娘に叱られたくないので「こんなのやらせじゃないか」とは言いません。でも、学生には言います。「なんで、あんな遠くの砂浜でしゃべっている二人の会話が、テレビに聞こえるの? お互いに胸にマイクをつけているからじゃないの。っていうことは、二人の会話が、多くの人に聞かれることがわかってるわけだろ。だったら、これって、演技じゃないか。やらせなんだよなあ」。こういう私の言い分に対して、学生らの多くは、「あれは、やらせじゃありません、あれはホントの恋愛です」と不満そうに言い返してきます。
バッカじゃないの、あれが「やらせ」とわからないなんて、と半分は思ってはみても、そうは言いません。少し思うところがあるからです。

  3 もともとテレビは加工された現実
         〜だから現実よりも現実っぽい
 そもそもテレビで流される映像がどういうふうに放映されているかについて少しでも考えてみたことのある人なら、その映像が常に「編集」され「再構成」されているものであることは、すぐにわかるので、テレビの映像を、そのまま「事実」として真に受ける人のことがとっても気になってしまいます。私はメディア研究者が、「最近のテレビほど『やらせ』が横行している時代を知らない」とテレビでいっているのを見て、「ばかじゃねえの」と思ったことがあります。確かに、「うそ」を「本当」であるかのように、あるいは実際には起こっていないものを、実際に起こった「虚偽」や「作り物」があるわけで、テレビからそういうものをなくそうというのはわかりますし、そうあってしかるべきだと思います。しかし、テレビに「作り物(やらせ)」が増えてきたという見方は、何かしら根本的におかしいところがあるんじゃないでしょうか。
 たとえば、自分の運転免許証の写真を人に見せるのは、普通は嫌なものです。たいてい変な顔に写っているからです。「事実」ではないんですよ、その顔は。でも、映像になるというのは、出来事を「写し取っているもの」で、出来事そのものではないですから、「事実」ではないといえばいえるものです。そういう意味では、運転免許証の映像は、ふだんの私じゃないし、「事実」に反している顔になっているから、「ニセ物」といわれてもいいし、「やらせの顔」だといわれてもしかたがないものがあります。
 運転免許証とテレビを一緒にしてしてはいけないと言われるかもしれませんが、写真を含め映像一般が、写し取りであることは、この例からすぐにわかります。そこから、考えれば、「テレビ」という映像形態そのものが、出来事を写し取った「模造品」とういか、「構成物」としての「作り物」であって、どこか「やらせ」っぽいところをもっているものだと思わなくてはなりません。ですから、この頃のテレビほど「やらせ」が横行している時代はない、というのではなくて、そもそもテレビは『やらせ』でできている」、と考えるべきところがあるわけです。
 でもテレビは「事実」をちゃんと伝えているじゃないのと言われそうです。2001・9・11、ツインビル・テロの映像は、「本当」の映像じゃないですか、と。あれは「やらせ」ではないし、「作り物」ではありえないですからと。確かにあの映像は、出来事を目撃した人の映像であることは間違いないのですが、だから「事実」だというのにはいろんな意味で難しいところもあります。というのも、当時、私たちは、いったいあの映像を、一週間、一ヶ月のうちにいったい何百回見せられたことか。たった1回しか起こらなかった出来事が、テレビをつけるたびに、これでもか、これでもかと現れる。ああいうふうに、1回しか起こらなかった出来事が、何百回となく放映されるのは「やらせ」でなくてなんなんでしょうか。あの映像は確かにあの時点のアメリカの悲劇を伝えてはいたけれど、単に「事実」を伝えているかと言えば、なにかしら腑に落ちないものを感じないわけにはゆきません。当時、世界の中にはもっと伝えるべき悲惨な状況はたくさんありましたが、「アメリカの悲劇」だけが唯一の悲劇のように繰り返し繰り返し放映されたことは、「やらせ」といわずになんと言えばいいんでしょうか。
 ということは、始めからテレビの中には、「映像」をトランプのカードのように持っていて、必要に応じて、同じカードを何回も何回も使ったり、カードを継ぎはぎしたり、すり替えて使うものたちがいたということです。要するにテレビは常に「映像」を「編集・加工」をする媒介物として使ってきたということで、それは昔も今もそんなに変わらないということです。では、何が変わってきたことがあるのかということになります。

  4 「メディア・リテラシー」の上を行こう!」
     〜番組を選ぶ目、切り替える目

 そこで、いよいよ、テレビの放送がはじまって50年、日本の子どもたちにとってテレビとは何であったのか、何であり続けているのか、という目もくらむようなテーマの端っこにしがみつかなくてはなりません。
 テレビやメディアに批判的な研究者たちの共通している発想に、「ガチンコ!」や「あいのり」など個々の番組を取り上げて、その中の「やらせ」のあり方を批判するという手法があります。でも、これはもっとも安易なやり方です。そういうことをして、何かしら「メディア・リテラシー」をやっていると思うのは、勘違いもはなはだしいです。 それは、そこには、「視聴者の楽しみ」というファクターが全然考慮できていないからです。私が「ガチンコ!」を「やらせ」と思いながらも楽しんでみていたり、うちの娘が神妙に「あいのり」を見ているのも、それがたとえやらせであってもかまわないと思ってみているということがあるわけです。そこが、「メディア・リテラシー」学者の見方と、庶民の楽しみ方の違うところです。
 ここで、「メディア・リテラシー」学者の発想にめったに取り上げられないものとして「番組表」というか「チャンネル」という発想のことを指摘しておきたいと思います。
「メディア・リテラシー」をうんぬんする学者から見たら、「やらせの番組」を見ている子どもや若者は、みんな「お馬鹿さん」に見えていると思われるのですが、実際は、「メディア・リテラシー」のような学問的な発想はしないけれど、けっこう番組批判眼はもっています。それは、「番組表」としてテレビを意識して、実際には「チャンネル」を切り替えるという操作でテレビを批判しているところに表れています。そして、視聴者にそういう批判眼があるからこそ「視聴率」が問題にされているわけで、想像以上に視聴者は移り気なのです。
 つまり、番組の中のリアリティと現実のリアリティは、視聴者はシビアに分けて意識しているんだということです。「あいのり」は「やらせ」かも知れないけれど、この一時間という時間帯の中で若者達は、この番組を、俳優が演じる恋愛ドラマよりはるかによくできた恋愛のドラマとして見ていて、毎回ハラハラドキドキしながらこの時間帯を楽しんでいるのです。「メディア・リテラシー」からみたら、明かに「やらせ」なのに、それを大真面目に信じて登場人物を追いかけるというなのですが、それは「やらせ」にだまされているというよりか、その時間帯だけに現れるリアリティを「楽しんでいる」というわけです。「そういう番組なんだよ」という受け止め方。それが、私のいう「番組選びの現実」です。「チャンネルごとの現実」をさがすと言えばいいでしょうか。
 でも、こんなことは声を大にして言うほどのことではありません。昔から、NHKの大河ドラマを見てきている大人達のことを考えてみればすぐにわかります。多くの日本人は、あの日曜日の大河ドラマを、けっこう「事実」のように感じて見続けてきているところがあるのです。「前田利家」が、あんな間抜けな顔をしていないとか、「まつ」の何ともいえない表面的なすまし顔にはがまんがならないといってみたところで、多くの人があのやらせのドラマに、いろんな「真実」を感じ取ってきたわけで、それは若い人が「あいのり」に「真実」を感じ取ることがあるのと、そんなに変わらないんですね。そこを「メディア・リテラシー」という発想だけで、小馬鹿にしたり、批判をしたようなつもりになってはなってはいけないのです。
 子どもたちは、「ドラえもん」や「仮面ライダー」を「事実」だと思って見ている時期があり、しだいに「それはないだろう」と思って見なくなる時期が来ます。ところが、それを「メディア・リテラシー」の力がついてきたからというように見たがる人もいます。もし、そうだとしたら、「作り物」を「事実」のように感じて面白がる感性は否定されなくてはならなくなります。私が最近の「メディア・リテラシー」に胡散臭いものを感じるときがあるのは、こういう子どもたちの「作り物」を「事実」のように感じて面白がる感性を、悪いもののように見なしてしまおうとする傾向を感じるからです。
 戦後のテレビ世代は、「チャンネル」というものを手にすることが出来て、情報を切り替える発想を手にすることが出来てきました。気に入らないとチャンネルを切り替えるわけです。これはテレビの製作者からすると困ったことですが、子どもや若者は、この切り替えスイッチで、テレビの与えるリアリティを持続させないようにしてきました。北朝鮮のテレビのように切り替えるチャンネルがないと、情報を切り替えることができず、情報は鵜呑みにするしかないわけです。でも多チャンネルの時代に育った戦後のテレビ世代は、「メディア・リテラシー」派が思っているほど、お馬鹿さんではなくて、知らず知らずのうちに、テレビの強く打ち出すリアリティを「切り替え」によって緩和させ、自分のお気に入りのリアリティをある時間帯だけ楽しむという技を身につけるようになってきています。多チャンネルの中の多現実がわかってきているから、子どもや若者は、せめて「本物らしく作られたチャンネルのリアリティ」を「番組」として楽しむという「構え」を学んできているんです。私はそう感じています。そんな、「番組の中のリアリティ」を、「やらせ」だといって批判することが「メディア・リテラシー」と呼ぶのはちゃんちゃらおかしいぞ、と私は思うわけです。
 子どもや若者の批判眼は、娘の「そんなふうに見て楽しいの!」の一言によく表れているんじゃないでしょうか。