じゃのめ見聞録  No. 53

「奈良女児誘拐殺害事件」に思う
  
―「カメラ付き携帯」の引き起こした事件の問題―


2005.1.28




 ひどい事件が起こると、こういう事件を起こす犯人と自分との間に接点はあるのかどうか、できるだけ考えたいと思ってきた。昨年末に起こって日本中を震撼させた、奈良女児誘拐殺害事件は、あまりにも異様で残忍な事件だったので、当初から、私たちとの接点などは考えようがないように思えていたし、私もそう思っていた。そして捕まった犯人は幼児性愛者というか、幼児への性的犯罪を繰りかえていた男ということなので、ますます犯人との接点は、一般的には見出しようのない、特殊な事件のように感じられている。もっかの議論は、幼児性犯罪者の居場所を監視するシステムをどう作るかという方に動いている。それは世界的な規模での動きでもあるので、それはそれで適切に議論がなされることを望む。
 ただ、この奈良女児誘拐殺害事件は、当初から奇妙な事件として感じられていた。事件の残忍性や通学する学校の関係者に多大な恐怖感を与えていたということもあったが、犯人の動きというか、立ち回りがとても奇妙に見えていたのである。犯人が捕まった今となっては、後付でいろいろと憶測はできるものの、犯人が捕まるまでは、やはり「犯人像」は奇妙なものだったのである。あのときの、犯人が捕まるまでの、私たちの感じていた「奇妙な感覚」を、忘れないようにして、どうしてもいくつかのことは考えておきたいのである。
 なぜそんなことを言うのかというと、捕まるまでの犯人像と、捕まった後の犯人像の間には大きな落差があり、その落差は、今回の「犯人像」にどこか関係しているように思えてならないからである。
 奇妙だったこと
@ なんと言っても、幼い子どもを殺害したこと
A 殺害した子どもの画像を、メールで親に送りつけたこと
B その後何度も被害者宅にメールを送ったこと
C 妹までも「いただく」というメールを送りつけたこと

 どこが奇妙な印象を受けたかという、犯罪を犯すものは、それを隠したがるはずだと思っているのに、つまり自分が犯人であることを知られないようにするはずだと思われるのに、犯人は、自分の居場所がわかる可能性のある携帯を使ってメールを送っている。新聞やテレビでは、連日のように携帯の発信場所を図にして説明しているのに、なおその携帯からメールを発信している。
 そこで、マスコミは、この「犯人」がメールや携帯などの仕組みを熟知した者で、その機能をわかった上で逆にそれを利用している「知能犯」であるようなイメージを与えていた。私たちも、そういうふうにしか考えられなかった。あれほどテレビで発信場所を指摘されているのに、それを使うというのは、本当はそういう場所に住んでいないから、わざと奈良まで出かけていって、その近くに居場所があるかのように操作を攪乱させる狙いがあるに違いない、と。
一方で、執拗に少女がもっていた携帯にこだわり、さらには妹まで次のターゲットにするようなことをいうのは、どこかで家族に恨みのもつものの犯行であるのでは、と思わされてきた。
 犯人が捕まった後では、このマスコミが流してきた犯人像は全然違っていたことがわかる。犯人は「ネット犯罪に長けた知能犯」でも「家族に恨みをもつ者」でもなかった。そうではなく過去に犯罪歴のある「幼児性愛の性的異常者」だったというのである。もしそうだとしたら、マスコミの騒いでいたのは、筋違いの話題であって、なすべきことは「幼児性愛の性的異常者」の「早期発見」とか、地域でのそういう犯罪前歴者の地域居場所監視システムを法律で作ること、のような議論を推し進めることになってゆくだけである。
 しかし振り返ってみると、この事件は、「性的な犯罪前歴者」の起こした事件という枠に収まらないものを持っていたことを、思い出さなくてはならないと私は思う。この事件は「犯人」が、仮に「性的な欲望」を満足させるためだけに引き起こした事件だったとしたら、くり返して書くことになるが本当はそういう欲望を達成したら、そういう事件のあったことを「隠す」ように立ち振る舞うのが「普通」であるように私たちには思われるのである。どこかに遺体を埋めたりして、犯行の痕跡を「隠す」はずだと思われるのだ。
しかるに、今回の事件は、「幼児殺害事件」という問題にとどまらず、「幼児殺害の映像を撮ってメールで送りつける」という事件になっていたのである。その異様さが、日本中を震撼させたはずなのである。この「意味」が解けないと、この事件は少しも解決はしていないように私には思われるのである。



 この事件が起こるためにどうしても必要だったものがある。
@ 少女
A カメラ付きの携帯
B 携帯が発信場所のわかる携帯
C 車
D 土地の地理に詳しい
 ここでも、特異なのはAとBである。もしも、今回の事件と同じ事を数年前にしょうとしたら、どういうことをしなくてはならなかったかを考えてみる。犯人が、少女を殺害し、写真に撮り、それを現像し、封筒に入れて被害者宅に送る、ということになる。すると、普通であればまず写真の現像の段階で実現実現不可能になる。自分のところに現像機やポロライド写真のようなものがあればできるだろうが、以前であればまずは不可能である。それが可能となっても、それを被害者の自宅に送りつけるというのは、その自宅の住所がわからないとできない。通りすがりの少女を殺害するのだから、住所を知ることはほぼ不可能である。
 ところが、今回の事件は、「殺害の写真」が撮れて、それが「自宅に送られる」ことになってしまった。それが可能になったのは、「カメラ付きの携帯」ができたからである。そういうものを、小学生でも持ち歩き出来るようになったのは、まさにここ数年のことであり、そのことを考えると、この事件は、数年前には起こりえない事件であったことが見えてくるのではないだろうか。
 問題は、この携帯を使って犯人は何をしょうとしたのか、ということである。
 犯人は、遺体の映像を「カメラ付きの携帯」に保存し、自分で開けてみるだけではなく、人にも見せていた。これは異様な心理のように感じられる。しかし、私はこの異様な光景を、犯人の異常な心理にだけに還元して説明できないものも同時に感じている。というのも、こういう光景は、この「カメラ付きの携帯」というテクノロジーが発明されないと起こりえなかったかもしれない事件であるからだ。この対象物を携帯のカメラに保存したいという欲望は、あのヨン様に群がる主婦たちがいっせいにヨン様に向けて「携帯」を突き出し、必死でカメラに納めようとしている心理とそんなに無縁ではないと感じるからである。いままでの、芸能人のファンなら、その人に手を振るだけでよかったのに、いまでは、携帯を突き出せば、あの「手の届かない人」が、いつまでも自分の手のひらの中に収まって、携帯を開けるたびに自分に向かってほほえんでくれるのである。この技術を使いたいと思うのは、決して「異様な心理」ではないのである。しかし、携帯付きカメラの発明というのは、やはり「異様な発明」であることは、もっと知っておくべきであろうと私は感じている。
 もう一つ、気になる事実関係を記しておく。それは、犯人が、車を知人から借り、携帯も他人名義で購入していたということである。そして普段は新聞販売所に勤めていた。犯人の特定に時間がかかったのは、車や携帯が「他人の名前」で使われていたというところにあった。犯人はそれを知っていて、自分には操作の手が及ばないと高をくくっていたところがある。すっかり他人になりすませて、その他人の機械を使って悪事を働く。これも、そういう他人名義で動くシステムがあって実現できる犯罪である。私は、今回のおぞましい事件を、ただ「犯人の異常性」からとらえるだけではなく、現代の恐ろしいテクノロジーのもたらす災いである側面も見てゆかないといけないと思う。私にはこの技術を使った犯罪がこれから増えてゆくような気がしてならない。