じゃのめ見聞録  No. 52

「新しい「寛容」の時代へ向けて
  
―虐待」という言葉への違和感を感じながら―


2004.12.1


1 相当な抵抗感がある「虐待」という言葉」

 映画『愛を乞うひと』の娘照恵は、実の母豊子から、これでもか、これでもかというほど叩かれたり、蹴られたりして暮らしている。腫れ上がる顔、見ていられない。しかし、その状況を私たちは、殴られているとか、蹴られていると受け止めても、「虐待」されている、というふうに表現することは普通はないのではないか。この映画のテーマソングは、「虐待防止」のコマーシャルに使われているから、音楽を聴くと自然にこの映画のことが思い出される。しかし、この映画を「虐待の映画」だという人がいたら、その人はそうとうに「虐待」の概念を刷り込まれているのではないか、などと私なら思う。
 最近では「虐待」というと、判で押したように「身体的虐待」「ネグレクト」「性的虐待」「心理的虐待」の四つがあるんだという記述に出くわす。どうしてそういうことになってきたのか、「専門家」の間の歴史的な事情があるのだろうが、常識的に考えてみて、そんな広い範囲の出来事を「虐待」というような一言でくくれると考える感性には私はついてゆけない。特に「虐待」という不気味な言葉を、そこまで広げて使うことには、相当な抵抗感が私の中にはある。
 「虐待」という言葉、漢字は、日本語としては特異である。「むごく取り扱うこと」「残酷な待遇」というふうに説明(『広辞苑』第五版岩波書店)されるこの言葉を、abuseの翻訳語として研究者たちが使ってきて、それがいつの間にやらマスコミが広げ、日常生活でも当たり前のように使われるようになってきた。ここまできたら、もう誰もこの言葉の奇妙さに異論をいうことはできない感じがする。そして、逆に、この漢字や言葉を先に持ち出して、この言葉のもつニュアンスから、現実の出来事を推測するような傾向もでてきているような気がしないでもない。何かしら、この言葉の出現によって由々しきことが起こってきているのではないかとすら私は感じている。
 こういうことを言うと、あなたは現代の子育てにおけるひどい「虐待」の現状を知らないのですか、と強いお叱りを受けそうである。毎年増え続けているこの悲惨な「虐待」の現状を知らないからそんなのんきなことを言えるのだと批判される気がする。毎月のように、虐待で殺されている子どもたちのニュースを見聞きしたことはないのですかと。そういう緊急の事態が進行してきているから、今年の4月に「児童虐待防止法」の改正案が成立したのではないのですか、と。
 もちろん私もそういうひどいニュースを見聞きしている。毎週のように、病院にかつぎこまれる子どものニュースを実ながら、なんてひどいことをするものだと感じている。しかし、そのことを思うことと、この「虐待」という言葉への違和感を言うということは、話が別だと私は思っている。

2 「虐待」という言葉で見えなくなるもの

 私は死に至るようなひどい対応をされる子どもの現実を軽く見ているわけではない。ただ殺害に至るような子育てがあるから、ひどい子育てをひっくるめて「虐待」と呼んで、みんなで監視しあおうという発想にはどうしてもなじめないものを感じるのである。そもそも日本語として使ってきた「虐待」という言葉には、「動物虐待」「捕虜虐待」などと使われるように、どうしても一方的に、むごい、残酷な対応をすることがイメージとして出てきている。しかし、実際の子育ての中では、本当にそういう言葉が喚起させるような出来事だけが起こっているのだろうか、と私は思っている。結果的に、暴行による打撲や骨折や内臓破裂などで死に至る子どもがいるのだが、それをみんなで「虐待」と呼び合うことで見えなくなるものがあるのではないか、そのことについてなんとか考える手だてはないものかと私は感じてきているだけなのである。
 「虐待」という便利な言葉を使わなかった頃は、ひどい子育てはどういうふうに呼ばれていたのだろうか。おそらく次の三つの言葉で、少なくとも三つの次元は区別して理解していたのではないか。
@しつけ Aしおき Bしうち
 この言葉には。少なくとも、養育するものとされるものとの関係を示すものが見える。「しつけ」と思ってやっていた、という言い方。言うことをきかないから、その「おしおき」としてやった、という言い方。さらには、相手が反抗してきたので、その「しうち」として「やりかえしてやった」という言い方。養育者の、その言いぐさがいかに理不尽で、身勝手であるとしても、「しつけ」とか「しおき」とか「しうち」とか呼んでいるときは、子どもとの関係でそういうことがなされていることが見えるということがあった。しかし、そういう言葉を使わないで「虐待」という言葉を使ってしまうと、一方的な暴力性ばかりがクローズアップされて、実際の親子や家庭の微妙なやりとりの積み重ねが見えてこなくなるのではないかと私は懸念しているのである。
 もちろん、結果が大事であって、内臓破裂で瀕死の重症を負わされている子どもを目の前にして、それが「虐待」であるかどうかの議論をしている余地があるのか、そんなことは机の上の話に過ぎないのではないかと、いわれそうである。しかし、私はそんなことを言っているわけではない。内臓破裂、頭蓋骨骨折の子どもを前にして、そんな議論をしているわけではないことを、ここで言っておかなくてはならない。

3 「非の連鎖」と「意地の張り合い」の過程を解き明かす

 私はこの小文を読まれる方に、ぜひとも胸に手を当てて思い出して頂きたいと思うことがある。それは、人が人に対して「ひどいことをする」というときは、どういう時であるのか、ということについてである。夫婦ゲンカにしろ、親子のケンカにしろ、そこで何かしら「ひどいこと」が起こるときには、「相手の非」を立てることをはじまりにしている。その「非」に対して「相手」が応じなかったりすると、非難がはじまる。その非難に対して反撃をされると、その「仕返し」がはじまる。そして、最初の「嫌悪感」がいつのまにやら「敵意」にすりかわりエスカレートしてゆく。そんな中で、お互いに折れる時期を見失うと、お互いの非難や敵意は「意地」となってそのまま凝り固まってゆき、ちょっとしたきっかけで物を投げたり相手を殴ったりするような爆発的な暴力となって現れてしまう。私は、普段虫も殺さないような人が、こういう事態に追い込まれると、けっこう「ひどいこと」をしてしまうのではないか、ということをイメージしている。
 こうした「意地の張り合い」の中では、それぞれに言い分があって、その言い分に沿って「ひどいこと」をエスカレートさせてゆくのである。しかし、端から見ると、一方的に殴っている夫の姿などは、ひどい「虐待」をしているようにしか見えないだろう。しかし、こうした「ドメステック・バイオレンス(家庭内暴力)」と呼ばれるような現象も、それを「虐待」とみなしているだけでは見えてこないものがあると私は感じている。こういう出来事が解体させられるためには、お互いが「非」と見なしていった「非の連鎖」と、それを元手にした「意地の張り合い」の長い過程がじっくりと解き明かされなくてならない、と感じている。攻撃力の強い方は、当然「虐待」と見なされるが、そう見なしただけでは解決されないのは、それまでの微妙なお互いの「非」のなすり合いの過程が、明らかにされないからである。
 昔から日本人の最も好まれてきた物語に「忠臣蔵」がある。これが「意地の張り合い」の物語であったことは多くの人が指摘してきたところである。登場人物のどちらにどういう「非」があったのかを確かめる場が設けられないがために、しだいに「相手の非」ばかりがクローズアップされ、その「仕返し」への攻撃が準備され、結果的に残忍な「殺し合い」をするまでに事態がエスカレートする物語が「忠臣蔵」なのである。
 私がこんなところでなぜこういった「忠臣蔵」のような古い話を持ち出すのかというと、「意地の張り合い」が、いつしか「仕返し」になり、それが結果的にはとってもひどい結末に至るという姿が、昔も今も変わらないところがあることをここで指摘したいのである。
 児童の「虐待」の話を「忠臣蔵」と比較するのはとんでもない暴挙だと言われるかも知れないが、子どもを育てる過程で、泣きやまないとか、言うことをきかないという、何でもないところに「相手の非」を見つけて攻撃することがおこりえるのである。なんと大人げないことで、と思っても、実際にはそういうことで養育者の「怒り」が向けられることがある。信じられないとしても、そういうことはやはりあり得るのである。人は鬼畜のようになって我が子を「虐待」するわけではない。そこには理不尽であれ、「親」なりの、「しつけ」「しおき」「しかえし」の三つの理屈が働いて、自分でもセーブできないままに、「ひどいこと」をしてしまっていることがあり得るのである。

4 現代の子育て事情の背後に忍び寄る特徴

 その現象が今日「虐待」と呼ばれて注目を浴びてきている。そこには、現代特有の、他の時代には見られない特徴があるのだろうか。昔から、子育てにおいて、言うことをきかない子どもを叩いたり、殴ったりしてきたことなどは、当たり前のようにあったはずである。だから、昔は、そういうものがなくて、現代急に増えてきたというふうに私は考えることはできない。そういう発想ではなくて、現代の子育て事情の背後に忍び寄る特徴があるのかどうか、そこは知りたいところである。
 私が一つ理解していることがある。それは「一億総中流」の時代が来たなどといわれた1980年代から、「みんな横並び」の意識の時代感覚が出てきた事についてである。現実には、1990年代に入って、バブル崩壊と長引く不況と雇用の不安定さが、確実に人々の間に貧富の差を設けてきている。にもかかわらず、時代は「みんなおなじ(中流意識)」の雰囲気をまき散らし続けてきている。現実には「貧富の差」が広がって「みんな同じ」ではなくなってきているにもかかわらず。おそらく、ここに現代の一つの特徴があるのではないかと私は感じている。そういう新しい時代の経済格差の中で、夫婦や家庭の基盤は思われているほど安定していなくなってきていると思う。そういう不安定な暮らしの中で、以前ならもう少し「手加減」ができたはずの人間関係、とくに近親者同士の関係において、「相手の非」をことさらに意識し、それを許さない、余裕のない暮らしぶりが出てきているのではないかと私は感じている。
 暮らしに余裕がなくなると、気持ちはとげとげしくなるし、お互いのミスを許し合うような「寛容」というものが持ちにくくなる。そういう時代が来ているのではないかという感じである。
 まだ「みんな同じ」というふうに感じない時代には、それぞれにそれなりの区別が意識されていた。たとえば、夫婦や親子の間の「違い」などは言うまでもないことである。でも、だんだん夫婦、親子の間の違いなどがことさらに改まって意識されるようなことがなくなりつつあるのではないか。子どもなんだから「手加減してあげなさいよ」ということがピンとこないことが起こり始めているのではないか。大人同士のケンカのようにして、子どもの非を攻撃する親が出てきているのではないか。「子どもなんだからそんなことぐらい許してあげなさいよ」ということができにくい家族環境がでてきているのではないか、と。このことは今の私のひしひしと感じているところである。だからこそ、そういう状況を「虐待」という言葉でわかってしまうようになるのはどうしても避けたいと感じているのである。

5 「みんなおなじ」が求められると、「ちがい」が認め合えなくなる

 私がもう一つ感じている現代の特徴は、ヨーロッパの統合(EU統合)というようなことが進められてきている事態についてである。いわゆる「世界のグローバル化」などと呼ばれてきている事態についてである。「EU統合」とは、ヨーロッパの国は「みんなおなじ」ですよという運動である。それが実現し始めてヨーロッパの国境が事実上なくなりつつある。パスポートなしにゆききできはじめている。こうしたEU統合で、どこが困ることになるかというと、生産力の弱い東ヨーロッパの国々が、先進国の西ヨーロッパの国々と「おなじ」とみなされてゆくことの「きつさ」である。「おなじ」ではないのに、「おなじ」とみなされ、西ヨーロッパの国々の設備と同じような設備が強引に求めらている。「おなじ」にはできないのに、無理をして「おなじ」であるような格好をつけなければならない。当然、東ヨーロッパの国々は今までとは違った不安定さに見舞われ、人々の気持ちはとげとげしくなってきている。私の国の伝統的な価値観はどうしてくれるの、というぐわいである。
 おなじようなことが、日本の1980年代から始まっていたのではないかと私は感じている。「一億総中流化」と呼ばれ、「みんなおなじ」とみなされ、男も女も、大人も子どもも、教師も生徒も、上司も部下も、「みんなおなじ(対等化)」ようにみなされ「手加減」するすべが見えなくなり出してきた。
 本来であれば、一人一人はそれぞれの価値観で生きていて、それは大事にされるべきであるのに、「みんなおなじ」が広がると、「価値観の共通化」が求められ、本来の「ちがい」が認め合えなくなってくる。
 かつてのヨーロッパはそういう「危機」に何度か直面してきた。古くは多神教のローマ帝国に一神教のキリスト教が広がってきたときに、「ローマ」は「寛容令」を出して、お互いの宗教の「ちがい」を認め合うようにうながしたものである。それからルネサンスのときにはじまったカトリックとプロテスタントの激しい対立、衝突の折りにも、「寛容」という思想がもちだされ、「許し合い」や「和解」を求めるすべが模索されていった。
私は、「虐待」が取りだたされる今日の世相を見ながら、夫婦や親子の間に、今まで以上に「ミス」や「非」を見つけやすい時代になってきているのではないかという気がしている。存在もしない「相手とおなじ」という思いこみのために、自分と違うことをする相手を、暮らしの中でうまく認めにくくなってきているのではないか、と思うことが出てきている
 そんな中で、相手の「非」を見つけて攻撃する近親者を、「ひどい鬼畜のような親」と見なし、そういう親から子どもを守る運動の必要性が、マスコミで意図的に強調されているような気がしてならない。価値観の違う者同士が寄り添い暮らすところには必ずさまざまな衝突が起こりうるものである。とくに現代のように「生きる流儀の違う者」が「おなじもの」であるかのように向かい合わなくてはならなくなってきているご時世では、お互いの「ミス」や「非」を認め合い、許し合う、「寛容」というものが発揮できにくくなってきている。なんで「お前はオレとちがうんだ!」というふうに。
 私はこんな時代だから、よけいに「非寛容」になる親の暮らしぶりに共感を持って接しなければならないように感じている。しかし「虐待」という言葉はそういう「非寛容」の親に対するアプローチを奪いかねない激しいイメージを持っていることを私はやっぱり訴えたいのである。
 今日、マスコミが流す「虐待」報道だけを見ている視聴者にとっては、そこにただ「ひどい仕打ち」だけが見えて、それなら、近所の通告システムや児童相談所や警察の介入の度合いを深めるシステムがもっと強化されるべきだと思うだろうし、子どもを親から切りはなす仕組みに救いの道を見つけられると判断してしまうだろうと思う。しかし「鬼畜」のように見なされる親は、そんなにいるわけではないのだ。
 むしろちょっとしたことを「寛容」になれなくなってきている私たちの時代の感性をもっと問う必要があるのではないかと私は思っている。誰でも「近親者にひどいことをしてしまう」時代になってきていることに、もっと自覚的になるべきではないと私は感じているのである。このことは、新しい「寛容」を求めなければならない時代に来ているという意味でもある。「寛容」というのは、言葉ではなく、その時代が作り出さなければならない思想や制度のことである。かつて、宗教的な激しい対立があった時代ですら、時の指導者や思想家は、「寛容」という思想の創出でもってその流れを食い止めることが出来ていたのである。そういう時代のあったことを私は今もう一度振り返ってみる必要性を感じている。
                    『季刊 子どもと健康 78』労働教育センター2004.7