じゃのめ見聞録  No.51

「生き物のいのち」と「あなた」
  
―鳥山敏子『いのちに触れる』批判―



2004.11.20

■ 「にわとりを殺して食べる」授業は何を教えていたのか

 長い間気になっていた本があった。それは、小学校で「にわとりを殺して食べる」という授業を記録していた鳥山敏子『いのちに触れる』太郎次郎社1985である。私は「この授業はおかしなことを教えている」とずっと感じていたが、そのことは「丁寧」に言わないと、きちんとした批判にはならないし、誤解を与えてしまうだろうなとも感じてきたからだ。
 私が気になっていたのは小学校の授業で「にわとりを殺して食べる」という実践をしたことにあるわけではない。「動物愛護」などの視点から、こういう授業をすること自体を非難する人がいるかもしれないが、私の批判はそういうものではない。生徒が受ける「授業」というのは、それを指導する教師の熱意や思い入れや後のフォローの仕方を含めて「授業」として生徒の心に残ってゆくわけで、私は鳥山敏子の「授業」の全体(準備―本番―フォロー―反省)を見て、そこから生徒達にいろんな想いを残した授業になっていただろうなと思っている。それは「良い意味」でそう思うのであって、鳥山敏子という特異な情熱をもった教師でないとできない授業がそこにあっただろうなと思う。
 そのことを踏まえた上で、それでもなおかつ鳥山敏子の「授業」を私は「評価」することはできないのである。この場合「授業」という様式に私はこだわっている。そのことを理解するために、この「授業」の行われた当時の様子を少しみておきたい。
 「伝説の授業」の行われたのは1980年の11月。クラスは4年生5組。参加者は生徒と母親や兄弟、その他の支援者を含め総勢90名ほど。名目は「課外授業」として計画されたが、自由参加であった。
 場所は東京の郊外、多摩川の河原。そこに鳥山の知り合いの養鶏場から、「卵を産むよりエサ代にお金のかかるようになってしまった鶏」を22羽もらいうけ、段ボールにつめて、河原にもっていった。用意されたものは、大なべ、包丁、まな板、竹の串、各種調味料、野菜類。そして鳥山はその河原に、連れてきたにわとりを放し飼いにし、それを捕まえて、殺して、みんなで食べるという「授業」をしたのである。鳥山はその時、河原で遊びだした生徒に「おおい、集まれ!にわとり狩りだよ」と号令をかけた。そのはじまりはこうだった。

 「さあ、中村さんに、にわとりのつぶし方を教えてもらうから、よくみてて」
 中村さんは、にわとりの首をきゅっとひねった。子どもたちも親たちも思わず顔をそむける。ぐにゃっとなったにわとりの両足をおさえ、首の毛をむしり、包丁をあてた。「いやだ!」「こわい!」。ぐっと力が入れられた。血がドクドクとふきでる。頸動脈を切断された首がブランとなったが、にわとりのからだは最後の力をふりしぼってあばれる。その生命力のすごさに身がすくむ。さかさまにつるして血を出す。ドクドクとわきでるまっ赤な血。それでもにわとりはあばれつづけた。
 やがて、おとなしくなった。死んだのだ。じゅうぶん血を出しきったところで、湯のわきたっているなべにさっと入れて、とり出した。とさかも目も黄色く白く変色していた。わたしたちをうらんでいるような目だ。わたしは、呆然と立って凝視している子どもたちや親たちに声をかけた。「さあ、みんなで毛をむしって!むしった毛はビニール袋にいれて、散らかさないように」いやがる子どもや親の心をはねかえすように、事務的な口調でいった。つき動かされた親子は、羽をむしりはじめた、こわごわと。むしりとっていく羽の下にみえてくるものは、いつも店頭で目にしているあの鶏肉である。
   鳥山敏子『いのちに触れる』太郎次郎社1985

 親も子も、呆然とする中で、中村さんの淡々と実演する「にわとり殺し」を見、自分たちも逃げるにわとりを追いかけ、首を切り、血を抜き、鍋に入れて羽をむしり、あとは切り刻んで竹串にさして、みんなで焼いて食べたのである。当時の何人もの女生徒は泣きだし、自分のお気に入りのにわとりを抱いて離さなかったりしていたが、鳥山自身も女生徒の抱いているにわとりを取り上げて「わたしがいまからにわとりを殺すから、けっして目をそらさずに見ていること」と命令をして実行していた。
 結果的には、泣いたり嫌がっていた生徒たちも、焼き串になったにわとりをおいしそうに食べることになった。もちろん、食べなかった生徒もいたが「授業」としては、およそ狙い通りのことはできて終わったことになった。
 その後に生徒たちは感想を書いた。鳥山は、この授業をまとめた本の最初に、一人の生徒の感想を載せていた。

 にわとり狩り(後藤有理子)
 とても、ざんこくでした。/にわとりを殺しました。わたしは殺せませんでした。殺し方……というので、先生が見せてくれました。まっ赤な血が、ぴゅーっととびちりました。あたり一面がまっ赤にそまりました。わたしのすきなにわとりも、殺されました。「もう、やめてっ、やめてったらー」女子は泣きさけびました。にわとりをだきながら、泣いている人もいました。男子がナイフをもって、おいかけてきました。「バカバカバカっ、れい血人間ーー」なんどもなんどもさけびました。でも、もうだめでした。ほとんど殺されていました。大きい柱の後ろで、声も出さないで泣きました。
   鳥山敏子『いのちに触れる』太郎次郎社1985

 こうした反応を見せることになる「授業」を、鳥山はどういう動機で、準備しはじめたのだろうか。鳥山敏子は1941年生まれなので、まだ戦争の最中で、貧しい暮らしをしていた頃を肌身で感じていた世代である。この世代体験を抜きに彼女の「授業」のことを理解することはできないだろうと思う。しかし、1940年世代は、何も鳥山だけではないわけで、そうした世代の生まれの「教師」の多くが、こんな特異な授業をしているのかというと、そういうわけではない。だから、やはりその特異さは、彼女の「発想法」に求められなくてはならないと思う。ちなみにこの授業をしたとき(1980年)、彼女は39歳だった。
 さて鳥山の動機であるが、その動機の一つにこういう理由を挙げていた。

 戦中・戦後を生きてきた多くの人がよく口にする「もったいない」は、わたしのからだにしみこんでいる。それは、わたしのなかでは、ただ、食べるものを捨てる、無駄にするという意味の「もったいない」だけではない。生きるということは、ほかの生きもののいのちをとりいれることである。自分が生きるために奪ったそのいのちは、自分が生きるためにぜんぶ使うのでなければならないということなのだ。奪いとったいのちは、自分のからだのなかで自分のいのちとしてよみがえっている自分の生がいま、こうして営みをつづけるまでに、どれだけ多くのいのちを奪ってきたことか。どれだけたくさんの植物や動物たちのいのちを食べつづけてきたことか。
   鳥山敏子『いのちに触れる』太郎次郎社1985

 こういうことを生徒にもわかってもらいたいので、こういう「授業」を計画したというのである。ここに書かれていることは間違ったことではないが、でも、ここには極端なことが書かれている。「自分が生きるために奪ったそのいのちは、自分が生きるためにぜんぶ使うのでなければならない」というのは、極端な主張である。私が特に気にしているのは彼女の使う不用意な言葉の数々である。特にここでは「奪い取ったいのち」という言い回しが何度も出てくる。雰囲気的にわかるとしても、それは本当にそういうふうに言えることなのかということは、もっと考えてみなければいけないと思う。生き物は、空気を吸い、光をあび、水を飲み、草木や動物を食べることで生きている。その全体が生の営みであり、それは「奪い取る」というような人間くさい言葉で切り取れるものではないはずである。しかし、鳥山の頭の中には、生き物は他の生き物の「いのちを奪い取って」生きているのだというイメージとして定着している。そして、そういう「いのちの奪い取り」の連鎖を、私たちは意識しなくなってきているので、何とかしてそれを「授業」を通してもう一度体験しようと考えていったようである。そして、こういうことを教えるために「にわとりを殺す」という「授業」をある時に思いついた。私が問題にしたいのは、この鳥山敏子の発想の根っこにある危険な観念論についてである。
 鳥山はさらにこの「授業」をするに当たっての、別の動機をこんなふうに書いていた。

 小鳥や犬や猫をペットとしてかわいがったり、すぐ「かわいそう」を口にして、すぐ涙を流す子どもたちひとが、他人が殺したものなら平気で食べ、食べきれないといって平気で食べものを捨てるということが、わたしには納得がいかないのだ。自分の身内のようにペットをかわいがる子どもたちをみて、心の豊かな子であるというふうにかんたんに見てしまう大人たちの風潮にも腹がたつ。自分のなかの何か満たされないもの、飢餓感、孤独感が、ペットヘの密着を強くしている場合もあるのだ。
 だからといって、それら生きものへの愛情をまったく否定しているわけではないのだが、わたしには、「生きているものを殺すことはいけないこと」という単純な考えが、「しかし、他人の殺したものは平気で食べられる」という行動と、なんの迷いもなく同居していることがおそろしくてならない。
 狩りと採集の時代も、農業の時代も、人間は自分で口にするものは自分の手で殺してきたのだ。それは、多くの動物たちと同じように、ぎりぎりのところまで追いつめられ、そのいのちを維持するためであった。したがって、食べるということには、空腹を満たすということだけでなく、ある神聖さ、感謝があったように思えるのだ。
   鳥山敏子『いのちに触れる』太郎次郎社1985

 さっと読んでしまうと、いかにもそうであるかのようなことが書かれているように思われるが、でもここ言われていることはおかしなことであり、「常識」から外れているところがある。私は鳥山が次のようにいうことがまず気になる。
 「小鳥や犬や猫をペットとしてかわいがったり、すぐ「かわいそう」を口にして、すぐ涙を流す子どもたちひとが、他人が殺したものなら平気で食べ、食べきれないといって平気で食べものを捨てるということが、わたしには納得がいかない」
 なぜ鳥山はこんなことが納得がいかないのか。こういう反応を見せることは当たり前のことであり、これが納得できなくてどうして普段の暮らしができるのだろうか。彼女はまた、こうも言っている。
 「わたしには、「生きているものを殺すことはいけないこと」という単純な考えが、「しかし、他人の殺したものは平気で食べられる」という行動と、なんの迷いもなく同居していることがおそろしくてならない」
 なぜ、こんなことに「おそろしさ」を感じなくてはならないのか。庶民は「生きているものを殺すことはいけない」と単純に考えながらも「しかし、他人の殺したものは平気で食べられる」。庶民はそういう矛盾を、たいした矛盾とも考えることなく暮らしている。でも鳥山は、そういう矛盾した考えが「なんの迷いもなく同居していることがおそろしくてならない」などと書くのである。ここでなんで「おそろしくて」などという大げさな言葉をもってきて異論を言わなければならないのか。こういう「異論」は鳥山敏子の観念論の産物にしかすぎないのではないか。
 事実、鳥山自身も普段はそういうふうにして暮らして食べているのではないか。カレーを食べながら、鳥山はいちいち「私はなんておそろしいことをしているんだろう」などと考えているのだろうか。とうふの上にふりかけられている鰹節を見て、「おそろしくてならない」などと感じているのか。そんなことはあるまい。それなのに、鳥山は子どもたちにに、そういう「おそろしさ」を感じるような「授業」をしょうとするのである。鳥山敏子の観念論のおつきあいをさせられる「授業」を私はよしとすることはできない。
 さらに私の懸念していることがある。それは次のように書いていることについてである。
 「狩りと採集の時代も、農業の時代も、人間は自分で口にするものは自分の手で殺してきたのだ。」
 おそらくここに鳥山敏子の発想の起点があり、彼女の観念論の集約されるイメージの出所があるように私には思われる。鳥山は「狩りと採集の時代」が「自分で口にするものは自分の手で殺してきた」と考えている。こういうことを考えているので、現代の自分たちがそういうことをしなくなり、いのちの大切さがわからなくなってきているのではないかと考えている。そして、そうした太古の「狩りと採集の時代」を想定することから「にわとり狩り」という「授業」の発想も作られてゆくことになる。しかし、私が鳥山敏子の授業で最初に違和感を感じたのは、実はこの「狩り」という言葉の特異な使い方にあった。
 鳥山は、まず多摩川の河原に生徒を集めたときに「にわとり狩り」をするよ、とみんなに言っていた。そして、そこでつかまえたにわとりを前に「今からにわとりを殺すから」とも言っていた。女子生徒たちは泣いていたが、「狩りと採集の時代も、農業の時代も、人間は自分で口にするものは自分の手で殺してきたのだ」と考える鳥山は、そこで自ら包丁でにわとりの首を切って見せたのである。
 繰りかえていうことになるが、私はそういう展開を見せたことをとやかく言っているのではない。私の奇異に感じていることは、こういう展開を自由参加にしろ「授業」として設定して、生徒にこで鳥山の観念論を押しつけているところがどうしても気になったのである。どこが観念論なのか。
 それは、そういう「授業」で、「狩り」という言葉を使い、「殺す」という言葉をひんぱんに使っているところであり、そしてこの授業に参加する自分たちを、あたかも「狩りと採集の時代」にいるかのように錯覚させているところである。それは奇異な発想である。彼女の理解によれば、「自分で口にするものは自分の手で殺してきた」時代があったというのであるが、ここで鳥山が考えている「自分の手」とはどういう「手」なのか。共同で「狩り」をしていたはずの太古の人々は、いわば「みんなの手」で狩りや漁をしていると感じていたはずである。そんな昔の人々が、近代の個人主義の産物である「自分の手」で殺すなどということを本当に意識していたとはとうてい考えられない。そういう考えは時代錯誤もはなはだしいと私には感じられる。
 さらに、河原に放し飼いにしたにわとりを「にわとり狩り」と称してつかまえるという時、それを「狩り」と呼ぶのは本当に正しいことだったのかと私は思う。おそらく当時の生徒にも保護者にも、それがなぜ「狩り」なのか、きっとわからなかったはずだと思う。鳥山は、かつての山で行われていた「いのしし狩り」や「ウサギ狩り」などを想定していたのだろうか。そういうものを真似て、河原で「にわとり狩り」をしようとしたのだろうか。
もしそこで行われていたことが昔やっていたような「狩り」だとして、そこで捕まえた「獲物」をみんなに見せつけて「さあ殺すからよく見ておくんだよ」などいうことを、本当に昔の人は言ったのだろうか。
 私はそんなことはないと思う。とくに鳥山が「殺す」という言葉を、鳥山が生徒に向けて連発しているのは異様だと私は思う。なぜ、こんな場面で「殺す」という言葉をわざわざ使わなくてはならないのか。
 私自身1949年生まれの田舎育ちだから、祭りの日には、家で飼っていたにわとりを父が料理するのを日常的に見て育っていた。でも、その時に父は一度も「にわとりを殺す」とは言わなかった。「にわとりをつぶす」「にわとりをこなす」とか「かしわにする」とか言っていた。「にわとりをつぶす」「こなす」という言い回しの中に、「殺す」ということも含まれているが、昔の人はそこであえて「殺す」という言葉を使わずにいたと思う。それが昔の人の知恵であり、そんなところで「殺す」という言葉を使うと、妙なイメージに取り付かれることを知っていたからではないかと思う。
 だから「殺す」などといわなくても「つぶす」とか「こなす」とか「さばく」といえば、それで一連の手続きはすべて入っていたのである。しかし、鳥山はそこであえて「殺す」という言葉を使って、生徒ににわとりを「殺す」ことを意識させようとしていた。そういうことをすることが、いったい何をさせようとしていることなのか、私は鳥山にちゃんと自覚できていたとは思われない。そんなことを昔の人はやっていなかったはずなのだから。



■ あの「授業」は何だったのか

 私はあの「授業」で鳥山がひどいことを実践したと批判しているわけではないことを繰りかえて言ってきている。「動物愛護」の立場で、そういう批判をしているわけではないのだ。
 鳥山が実践した一連のことは、「ふつうに考えれば」どういうことをしたことになるのかということである。「ふつうに」と言うのは、鳥山の狙いとしている観念をとってしまうと、どういうことをすることになるのかということである。おそらく、その中身は三つの過程に分けられると思われる。
@獲る
A料理
B食事
 こういう三つの過程は小学校でも実践する。@としての過程は、学校の近くの田んぼで稲を栽培したり、野菜をつくって「獲る」したり、近くの海や川、湖などで魚などを「捕獲」することもあるだろう。Aはその獲る物を「料理」する過程である。Bは料理したものを食べる過程である。
 鳥山敏子は、おそらくAとBは学校の家庭科で実践されることはあるが、@が体験されていないと考えている感じがする。とくに、稲や野菜の栽培というような「獲る」はあるものの、動物の「捕獲」はないのではないか。そこをはぶくと「食の実態」を教えることになっていないのではないか、と。そこで、この@の過程に目をつけて、稲や野菜や魚ではなく、「にわとり」を使おうと考えたようである。
 鳥山がそういうことを考えてゆくのは、もう一つの動機があった。それは、「動物」を食べる時の、その動物の「屠殺」や「解体」は、歴史の中では「被差別部落」の人々によって担われてきたもので、それは多くの人が忌み嫌ってきた職業であったがゆえに、人々の目に隠されてきたものだと考えるのである。そういう「差別」のことを考えるためにも、こうした「屠殺」というものを「自分たちの手」で体験してみようというのである。しかし、これもかなり無理をした強引な発想である。田舎では、ごく普通に家で飼っているにわとりや豚を、そこの家の人が殺して食べていたからである。
 だから、@の過程というのは、鳥山が考えるような「屠殺」とただちにイコールにはならないところがあった。奇妙なのは、彼女が@を「にわとり狩り」というような言葉で呼んでいるところである。「狩り」と「屠殺」とは、どうしても重ならないからである。
 また屠殺とは大型の動物(家畜)を殺して解体することをいうのであり、河原でにわとりを殺すことをあえて「屠殺」というような仰々しい言葉で呼ぶことはないはずである。しかし鳥山が「屠殺」にこだわるのは、そうした仕事を従来から「被差別部落」と呼ばれる人々が集中的に担わされてきた歴史的経過があったので、そういう体験を生徒にもどうしても体験させたいと考えていたからである。それで、にわとりを殺す作業をあえて「屠殺」と呼ぼうとしていたのである。



■ 「殺す」という言葉は正当か

 ここでもう一度考えたいのは、「授業」では何をしたかったのか、ということである。学校の「授業」では、見てきたように、@獲る A料理 B食事の三つの過程を学ぶ機会がある。その時に「学ぶ」ことの中身は、つねに「文化」としての「伝承」である。私たちはいとも簡単に「獲る」とか「食べる」とかいっているが、それはそんな簡単にできるものではない。野菜を育てるのも簡単ではないし、川で魚を捕るのも簡単ではない。なぜなら、そこには、そういうものを「獲る」したり「獲る」ための長年にわたる人々の「知恵」というか「技術」というか、そういう「文化」の「継承」があってはじめて可能になる面がある。わたし自身のことを振り返ってみても、友だちと田舎の池でザリガニ釣りをしていたときに、よく釣れる者がいた。餌の付け方が違っていたのだ。その「技術」を教わることで私もまたたくさん釣れるようになっていったものだった。(ちなみに、どういう餌が一番よかったかというと、かえるの足を持って石の上で叩いて内臓を破裂させて、そのまま足に糸をつけて池にたらすのである。そうすると、その内臓や血のニオイに引き寄せられて、ザリガニがすぐにしがみつきにきていたのである)。
 ちょっとした「ザリガニ獲り」でも、「技術」という「知恵」の「継承」がないと実現しない。そうした「@獲る」という次元を、仮に鳥山敏子が考えたような「狩り」というものとして想定してみることにするとどうなるのか。そうしたら「狩り」というものは、河原に弱ったにわとりを放し飼いして捕まえるようなものではないことはすぐにわかる。なぜなら生きた動物を「狩る」というのは、高度な技術の伝達なしにはあり得ないからである。(段ボールにつめこまれて河原に運ばれてきたにわとりは、ほとんどがすでに弱り切っていたらしい。そういうにわとりを「狩る」というのだから妙な感じである。)
 私たちはすでにオルテガの『狩猟の哲学』西澤龍生訳 吉夏社2001(『反文明的考察』の中の同名の論文の改訳)を知っているわけであるが、そこでオルテガがいかに「狩猟」というものが人間にとっての深い「文化」であったかを考察していた。さまざまな動物との「知恵」の駆け引き、それは、単に野山の動物を捕まえて殺すというようなことではなかったことがこの本からもよくわかる。
 しかし、鳥山敏子は河原でのにわとりを何の「文化」も介在させずにただ追いかけ回し、捕まえるのを「狩り」と呼んだのである。それは正しいやり方だったのか。もちろん鳥山は、現実に「養鶏場」や「屠殺場」では、そんな「文化」や「伝承」に関係なく、いきなり「殺す」ことをしているではないかというかもしれない。もし、そういうことを言いたいのなら、鳥山は、あんな河原での「狩り」のまねごとなどをしないで、さっさと教室で「屠殺」をすればよかったのである。しかし、その「屠殺」というのも、鳥山の思惑とは別に、高度な技術や伝承があってはじめてできることだったのある。事実、にわとりを必要以上に苦しめたり、暴れさせたりしないで息の根を止めるには、どこをどうすればいいのかの「熟練の技」が必要であることは、鳥山と同じにわとりを殺す「実践」をした村井敦志の『「いのち」を食べる私たち』教育史料出版会2001にも書かれていた。
 そういう「技術」を無視して、あたかも「狩り」のようなまねごとの中で、ただぶっつけ本番で暴れるにわとりの「首を切る」というようなことをやってのけるのは、「授業」という名前を借りた、ただの「野蛮な」「殺し」にすぎないものになっていたと私は思う。だから鳥山はひたすら「殺す」という言い方を連発しても平気だったのである。本当の「狩り」は、そういう「殺す」ということとはほど遠いものであったかもしれないのに。



■  文化としての@獲る A料理 B食事

 ここから生き物を食べるというのは、ただ生き物を殺して食べることではないのだということがわかってくる。そのことを踏まえて@獲る A料理 B食事の三つの過程を見てみると、それはむしろ生き物をただ「殺す」ことにならないような工夫の過程であったように思われる。それはどういうところに見ることができるか。
 獲物を捕ったのちに、私たちはそれを食べるわけであるが、いきなりその場でばりばりと食べるわけではない。それは「料理」という工夫がさなれる。それも「文化」である。料理をしないで食べる、ということは、まずないだろう。鳥山も、包丁やまな板の他、各種の調味料、竹串、そして炭や燃料を持って行っていた。
 もし学校で「食べる授業」があるとしたら、この「料理」とは何なのかをみんなではじめに勉強しておく必要があるだろう。なぜ「料理」というようなものがはじまったのか。何のためにそういうものが発展してきたのか。
 私たちの理解できる一つのことは、獲った物を「おいしく食べる」ためである。「殺す」とか「いのちを奪う」などというイメージばかりを鳥山は生徒に教えたがっていたが、「文化」としての「食べる」事の中には、「おいしく食べる」ということが含まれていたのである。事実、鳥山のやった「授業」では、「殺したにわとり」を串に刺して焼いたり、スープにして飲んだりして、生徒たちの間から「おいしい」という感想が出ていた。つまり「にわとりを殺す」ということと「にわとりをおいしく食べる」ということは、一体となっていて切り離せない行為になっていたのである。でも、鳥山は「にわとりを殺す」ことしかちゃんと生徒に「説明」をしていないのである。
 この「おいしく食べる」ことの中には「食事」という食べる作法の問題が含まれている。これも大事なことである。料理されたものは、みんなが好き勝手に食べていいわけではない。共同で獲った食料はみんなで分け合うことが必要であったし、食べる順番や何を使って食べるのか、それぞれの共同体で違っていた。そういう「作法」を学びながら食事するのが、私たちの食文化なのである。
 鳥山の書いていることで、唯一間違っていないなと思われたのは、次のように書いている箇所だった。「したがって、食べるということには、空腹を満たすということだけでなく、ある神聖さ、感謝があったように思える」。こうした「神聖さ」や「感謝」は、料理や食事の作法の文化として継承されてきたはずのものである。
 事実、野山に「狩り」に出かかる狩人たちは、山の神に獲物を捕ることを許してもらうことを、またたくさんの獲物を捕れること、自分たちの身の安全を守ってもらうことなどを祈願して山に入っていたものだし、その結果獲れた獲物があれば感謝をしたものだった。「神聖さ」や「感謝」というのは、こうした「文化」として受け継がれたもののなかでしか感じ取れないものなのである。
 しかし、鳥山のやった「授業」では、こうした「神聖さ」や「感謝」が得られるように授業が準備され展開されていただろうか。そんなことは全然なかったのである。そのことは、生徒たちの感想を見れば一目瞭然である。鳥山は、自分の頭の中では、こうした「神聖さ」や「感謝」を想定しながら、それが実践の中で、どういうふうに実現可能なのかについては全然考えていないのである。「食べる」ことが本当に「神聖さ」や「感謝」に結びつくものであることを子どもに教えたいのであれば、鳥山はあんな「河原でのにわとり狩り」のような破廉恥な設定はできなかったはずだからである。




■ 何を考えなければならないのか

 生き物は、漠然とした「生き物」としてまわりに居るときと、「食べ物」として感じる取るときと、それをことさらに「いのち」としてそこにいることを感じる時と、いろいろである。それらをひっくるめて「いのち」と感じ取るのは不可能である。
 そんな中で、自分のお気に入りの生き物に名前を付け餌をあげ世話をすることになると事情はさらに複雑になってくる。その生き物は、他の生き物とうんと違った存在になってくるからだ。今では、名付けられた生き物はペットと呼ばれたりするが、そうした生き物と、名付けられないままにいる生き物との区別については、鳥山はもっとデリケートに理解しなくてはならなかっただろうと思う。そんなことはわかった上でこういう授業をしているのだというかもしれないが、もしそうだとしたらそれは「授業」の範囲を超えていると私は思う。
 名前を付けて自分が世話をしている動物を殺さなくてはならなくなった物語は、すでに私たちはローリングス『子鹿物語』偕成社文庫、やロバート・ニュートン・ペック『豚の死なない日』白水Uブックスなどでよく知っている。しかし、そういう物語では、なぜその名付けられた動物を自分で殺さなくてはならないのか、筋道がよくわかるようになっている。でも鳥山の授業では、そういう理由は生徒には全然わからないままに「わたしがいまからにわとりを殺すから、けっして目をそらさずに見ていること」と命令されて「授業」がすすめられてゆくのである。これはどうみても無神経なやり方である。



■ 卒業後の記憶

 こういう特異な授業(ただ乱暴な授業とも言えるが)を受けた生徒がその後どういう風に育っているのか気になる人もいるだろう。何か心の傷(トラウマ)のようなものを受けた者もいるのではないかと。こういう懸念もあったので、鳥山敏子の授業に共感した人で、後にこの鳥山の授業を受けた生徒をその後追跡しインタビューをした経過を本にした人がいる。村井敦志(『「いのち」を食べる私たち』教育史料出版会2001)である。その追跡調査は時間のかかるものであったと思うし、その調査の結果、意外にもその当時の授業のあったクラスの「いじめ」のことなどが生々しく「回想」されており、別な意味で興味深いことを私たちは後からたくさん知ることになる。(ちなみに言えば、彼はこの本の中で、自分でも実際に「にわとりを殺して食べる」授業を中学生に実施した経過を書いている。このことへの私の感想は、鳥山敏子の本と重なるところがあるので省略したい)。
 村井の追跡インタビューでわかったことは、かつての名物授業の「悪影響」はなかったということである。というか、子どもたちは、そんな一こまの授業を、そんなに深くは思い詰めてこころに刻みつけるわけではないということである。「ちょっと変わった授業を受けたなあ」というぐらいの感想でしか残っていないのが現実であった。そのことは、自分の経験を振り返ってもよくわかる。すでに書いたように私の家でも、にわとりを殺して食べることは、日々の暮らしの中に自然にあった。それが何かしら妙なふうに「心に残っている」ことはない。父と一緒ににわとりをこなして食べた、ただそういう記憶が残っているだけである。父も「にわとりをこなす」ことを「命の教育」の材料に使うような野暮なことはしなかったからかもしれないが。
 あの授業を受けてからにわとりを食べられなくなったとインタビューに答えていた女性がいたが、ああいう授業を受けなくてもにわとりの皮が嫌だとか言ってにわとりを食べない女性はたくさんいるのだから、ことさら、あの授業のせいにするほどのこともないのではないかと私には思われた。
 ここで子どもたちの心に傷がつくほどのショッキングな体験があるかどうかを考えるなら、それは「にわとりを殺す」ような次元のところにあるのではなく、自分の家族や自分にふりかかってくるような「おぞましい体験」をしたかどうかによると私は思う。これ以外の事に関しては、「にわとりを殺して食べる」くらいの体験で傷つくような柔い子どもがいるとは私は考えられない。そういう意味からすると、私は鳥山敏子のこういう授業を取り上げて、子どもに有害な影響を与えてしまったのではないかと邪推する人たちには反対するものである。
 鳥山敏子自身もこう書いていた。

 「四年生の子どもににわとりを殺させるなんて、なんというおそろしいことをしているのだ。殺したことが子どもの心のなかに残虐性をうえつけることにならないか」と多くの人は、疑間を抱く。
 戦後まもないころだ。七、八歳のわたしは、いとこが自分の家で飼っていたにわとりを殺して料理するのをみたことがある。広い庭に台がもちだされ、そのうえでつぎつぎにバラされていくにわとりをみていたわたしの記憶のなかに、かわいそうにという感覚の片鱗も残っていない。いや、むしろ夕飯を思って舌なめずりをしながら見ていたことをはっきり覚えている。
   『いのちに触れる』p15

 実際はそんなものなのだ。「悪い記憶」が残るわけがない。だから、そういうことを現代の授業でやっても「おそろしいことをしている」ことにはならないのだとと鳥山敏子は考えたのだが、そこはやはり違うと私は思う。鳥山は決して親がして見せていたように、生徒に見せていたわけではないからだ。鳥山の親は「さあ今からにわとり狩りをするよ」などというようなおぞましいことを子どもに言っていたわけではないと思うからだ。




■ 「いのちの尊さ」を学ぶ教育のあり方

 なにが不自然だったのかというと、「にわとりを食う」という授業をしながら「いのちの大切さ」のようなことを教えようという矛盾についてである。

 殺す人と食べる人が分離されたときから差別がうまれ、いのちあるものをいのちあるものとみることさえできなくなってしまった。いや、人民を差別させあうために、政策として分離させたという事実も、わたしは直視したいのだ。
 (略)
 自分の手ではっきりと他のいのちを奪い、それを口にしたことがないということが、ほんとうのいのちの尊さをわかりにくくしているのだ。殺されていくものが、どんな苦しみ方をしているのか、あるいは、どんなにあっさりとそのいのちを投げだすか、それを体験すること。ここから自分のいのち、人のいのち、生きもののいのちの尊さに気づかせてみよう。
   『いのちに触れる』p18

 ここに鳥山の観念論があることはすでに指摘してきている。「自分の手ではっきりと他のいのちを奪い、それを口にしたことがないということが、ほんとうのいのちの尊さをわかりにくくしている」というのは、鳥山の極端な思い込みである。私の懸念は、これが鳥山の個人的な思索としてあるのならかまわないとしても、「授業」という形態を使ってこういう観念論を生徒に「教え」ようというのは、勘弁してもらいたいということなのである。
 ここには「殺す人」「食べる人」「いのちあるもの」「ほんとうのいのちの尊さ」「自分のいのち」「人のいのち」「生き物のいのち」という次元のちがうものが一緒くたにして取り上げられている。
 私がなぜ「あなた」というようなものを論じてきたのかというと、ただ生き物を「大切によう」という次元と、ある生き物が「あなた」という次元でもって感じ取られることは違っているので、そういう区別は「にわとりを殺して食う」というような乱暴な「授業」では理解できないと思ってきたからである。いのちあるものを「あなた」と感知する以外は、たいていのいのちは「物」のように扱われる。そしてそれはそんなに「悪いこと」でもないのだ。いのちを「物」のように扱うことがないと、私たちの日常性は成り立たないからである。
 問題はだからいのちを「物」のように扱うことを「悪く」考えることではなくて、いのちあるものの中に「あなた」を感じる機会のあることをもっとちゃんと理解してゆく方法を得られていないところにあるのである。とくにこういう「授業」でもって「いのちの尊さ」などが感じ取れると考える発想の貧しさこそが問題なのである。
 このことは、何も鳥山の授業だけに限らない。多くの学校で進められる「いのちの尊さ」を教える授業では、「生き物を大切にすること」と「生き物に<あなた>を感じること」の違いについてはたいして自覚的ではないと私は感じてきているからである。