じゃのめ見聞録  No, 50

心の「食べ物」がある?
ー児童文化、この「心の食べ物」を生み出すところー



2004.10.20



1 何を食べているんですか?

 コミック版の『風の谷のナウシカ』のはじめの方に一つの絵があります。ナウシカが腐海に散策に出かけた時のシーンです。ここで、ナウシカが、王蟲が食べた歯形のことを喋っています。
  「まちがいない。王蟲の歯形だ
  それにしても、食いがあらい・・・、
  もしかしたら、脱皮のあとかもしれない」
 これは不思議なシーンです。アニメの『風の谷のナウシカ』を見ている人たちのほとんどは、王蟲が何かを食べるところなんかはイメージしないからです。むしろ「ええっ、王蟲って何かを食べるの?」と逆に聞き返されるかもしれません。王蟲に「歯」があるなんて想像もしていないからです。
 確かに、王蟲が何かを食べるというイメージを喚起させるのは、コミックの方だけで、アニメの方には、そういうシーンはありません。だから、王蟲が何かを食べる生き物だということを意識しなかったのはもちろんおかしな事ではありません。ただ、宮崎駿さんが、コミックの方にしろ、ナウシカの物語で、王蟲も食べる存在であることを描いていることは忘れてはいけないと思っています。というのも、生きているものは食べる存在だからです。そして、意外に思われるかも知れませんが、実は宮崎駿さんは、常に「食べる」ということをとっても大きなテーマにすえて創作をしてこられた作家だったからです。
 いのちは食にあり
ということわざがあります。命を保つものは「食物」であるという意味です、生きているものは何かを食べなくてはいけません。こんなことは誰でも知っていることですが、でも、このことをちゃんと理解することは意外と難しいことです。
 昔の哲学者・デカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」という有名なせりふを残したのですが、ホントはもっと大事なことを言わなくてはなりませんでした。
 われ食べる、ゆえにわれあり
と、ね。一日三食、たぶん私たちはそうしています。身体が空腹になる時期が一日に三回あるということなんでしょう。「身体が欲しがるんです」っていうコマーシャルがありました。何かの飲料水のCMでしたか。その感じ、わかります。空腹になると、ラーメン屋のニオイがこたえます。まさに「身体が欲しがる」からです。




2 「心」が食べるものー「ファンタジーの力」

 でも、ここで「命は食にあり」の理解が難しいと私が言うのは、そういうことではありません。「身体が欲しがる」というのは、わかりますが、では「心」はどうなのか、と私はたずねてみたい気がしているからです。「心が欲しがる」ということはないのですか、と。もう少し言えば、「心も何かを食べなくていいのですか」「心にも食べ物がいるんじゃないんですか」という問いかけです。
 心の栄養
という言い方があります。「心」にも「食べ物」がいる? 確かに、身体が命だとしたら、心も命ですからね、「命に食あり」を言うんなら、身体にも心にも等しく「食」が必要であることを、やはり言わなくてはなりません。
 心にも食を
 心にも栄養分を
と、ね。では、「心の食べ物」っていったい何なのでしょうか。ここでは、子どものことに話を限定しますけど(と言っても、本当は大人にも同じ事は言えるんですが)、子どもにとっての「心の栄養分」というのは、子どもがそこから明日を生きるエネルギーや活力を得られるイメージのことです。宮崎駿さんは、あるインタビューの中でそれは「ファンタジーの力」なんだと言っています。

 「ファンタジーの力」ですけれど、それはもう実際自分の体験がそうだったので。不安に満ちてた自信のない自己表現の下手な自分が、なにか自由になれたというのは、ある時は手塚(治虫)さんのマンガであったり、ある時は誰かから借りた本を読んでであったりしたわけです。(略)現実を直視したら自信をなくしてしまう人間が、とりあえずそこで自分が主人公になれる空間を持つっていうことがファンタジーの力だと思うんです。それはなにもアニメーションとかマンガじゃなくても、もっと前の神話や昔話であっても、とにかく、なんとかやってけるもんだ、うまくいくんだよって話を、人間たちはもってきたんだと思うんですよね。(略)ジレンマも矛盾もあるんですけれど、僕はやっぱりファンタジーは必要だと思います。ただ、ファンタジーがアニメーションでなけりゃいけないとかマンガでなきゃいけないとは思ってません。なにかもっといい形でファンタジーが子どもたちに伝えられたらその方がいいなとは思ってますけれども。
 『ユリイカ臨時増刊号2001』

 もちろん「ファンタジー」なんていうカタカナ語で何かわかったつもりになってはいけません。宮崎駿さんは、ここで「ファンタジー」を「自分が主人公になれる空間を持つっていうことがファンタジーの力だと思う」と言い換えて、さらに「アニメーションとかマンガしゃなくても、もっと前の神話や昔話であっても、とにかく、なんとかやってけるもんだ、うまくいくんだよって話を、人間たちはもってきたんだと思う」と言い換えています。それが「ファンタジーの力」なんだと。
 おそらく、その「ファンタジーの力」と呼ばれているものが、「心の食べ物」「心の栄養」「心のエレルギーになるもの」のことだと宮崎さんは言いたそうですが、ここで大事なことは、宮崎駿さんが、そういう「ファンタジー」が「いい形で子どもたちに伝えられたらいい」と言っているところです。「ファンタジーをいい形で子どもに伝えること」、それが大事なんだと。「いい形で伝える」とは、おそらくは「ちゃんと食べ物になるように贈る」ということではないでしょうか。「心の食べ物になる」ように贈るということです。私の宮崎駿論(『宮崎駿の「深み」へ』平凡社新書のことですが)はそこのところを考えようとするものでもありました。



3 「おもしろいもの」と「力になるもの」

 「心のエネルギーになるもの」になるようなものを「いい形で子どもたちに伝える」ということの「いい形」とはではどういう「形」のことなんでしょうか。
 まず「おもしろい」ものでないと子どもは作品を見続けません。途中で飽きて見なくなります。ですから、「おもしろもの」を作らないとお話にはなりません。でも、「おもしろい」だけでいいのか、ということが次に必ず問題になってきます。宮崎駿さんが「いい形で」と言われるのは、きっと、そこのところを考えておられるんでしょう。「おもしろい」作品がまず大事なのだが、その「おもしろさ」が「心のエネルギーになる」ように作品を作ることが大事で、それがまた難しいのだと考えておられたと思います。
 では「おもしろい」とは、どういうものか。一番わかりやすいのは、幼い子どもの前で、手で顔を隠し、「いないいない、バア」といって顔を見せるというあのしぐさを考えることです。あれだけで、幼い子どもは喜ぶからです。なんでなんでしょう。
 「いないいない、バア」には、見えなくなった「顔」が、また再びパアと現れる、ということです。そこには消えたものが現れるという「転換」があります。現れたものが消えるというか、失われるという「転換」といってもいいでしょう。
 この「消え/現れ」あるいは「喪失/再現」が、子どもたちがおもしろがってきた根本にあります。
 昔からの「忍術使い」などがなぜおもしろかったのかというと、ドロンと言って忍者が消えるからです。消えてそしてまた思いがけところから現れてきます。まさに「いないいない、バア」の高等版です。ふつう、目の前にあるものが、忽然と消えるわけがありません。そういうことが起こると不思議でしょうがないわけです。
 子どもだけではなく、大人でも「失われた大陸」とか「失われた秘宝」「ジェラシックパーク・失われた世界」などといった物語や映画を好んで読んだり観たりしてきています。一度「失われたもの」を、「再び発見する」というのは、実は子どもだけではなく、大人にとっても「おもしろい」ことでもありました。
 こういう風に「消えたもの」を「取り戻す」というのは、不思議なおもしろさがあるのですが、この「失われたもの」を、「失った力」とすれば、その「力」の取り戻しは、その人にまた「力をよみがえらせる」ことであって、子どもたちは、そういう物語の展開に自分に「力」を与えられたように感じることがことが起こるものです。子どもたちが、エネルギーというか、パワーをもらうことのできる物語には、必ずそういう「失った力」の「取り戻し」の構造があると思います。
 大人が最も興味をもつ偉大な物語には、主人公が生を失う、つまり「死ぬ」のに、また再び生を得る物語があります。それは「宗教」と呼ばれることが多く、死んだのに甦る話がそこで展開されます。大人は、そんな死を乗り越えて生き返る教祖の物語に希望や支えをもらってきたんだと思います。
 子どもの喜ぶ物語は、そんなふうに主人公が「死ぬ」ところまではいきませんが、それに近いほどたたきのめさせれる場面がしばしば描かれます。でも、そういう悲惨な状態を乗り越えて主人公が立ち上がってゆきます。そういう物語の展開を見ると、子どもたちは勇気づけられることになるんですね。

 大事なことは、こういうことが実は身体が「食べ物」を食べることに、よく似ているということです。身体は、そのままだと、やせ衰えてゆきます。力が消えてゆきます。それを防ぐためには「食べ」なければなりません。「食べる」ことで、「消えてゆく身体」を再び取り戻すことができます。「食べる」ということも実は「消/現」の仕組みとしてあったものですから。
 このときに、消えてゆく自分の身体に「力」を与えてくれるもの、それが「食べ物」と呼ばれてきたものです。それは他の生き物を食べるということです。つまり、他の命を失わせるということです。そういうふうに他の命を「食べる」ことで、自分の消える身体を再びよみがえらせてゆくことをしているのです。つまり、食べる相手の命を失わせて、それを自分の命のよみがえりに使っているというわけです。「食べる」というのは、相手の命を奪うということであるのですが、同時にそれは、食べることで相手を自分の命にするということになっているのです。それを生物学では「食物連鎖」といってきましたが。



  4 子どもは「幻の生命」を食べている

 では、物語を「食べている」というときは、どういうふうに理解したらいいんでしょうか。その時は何を「食べている」と考えればいいのでしょうか。それは、いうまでもなく「映像」や「絵」だ、としか言いようのないものです。でも「ただの絵」ではありません。おそらく「びっくりするような絵」に対して、それを「食い入るようにして」見ているのです。まさにそのときに子どもはその「絵/映像」を「食べている」んです。きっと今までに見たことのないような「映像」や「絵」は、子どもを引きつけ、子どもの中に入り込みます。そういう「見たことにないような絵」をここでは「幻の光景」とここで呼んでおくことにしましょう。
 そういう光景は、『風の谷のナウシカ』のはじめに現れる「腐海」というような光景に見ることができます。「子どもたち」は、この見たこともないような「光景」を深く心に止めておくことになります。さらに、そういう「幻の光景」の中に現れる不思議な生き物に出会うとき、子どもたちは食い入るように画面を見つめてしまいます。「王蟲」とか「ゴジラ」のような生き物がそれです。
 こうした絵画やスクリーンの上の「幻の光景」の中で出会う生き物を、ここでは「幻の生命体」と呼んでおくことにしましょう。これは不思議な生命体です。いわゆる自然科学の中の生物学の中には存在しないものなのですが、長い文化の歴史の中で、「物語」を通して人々の心の中に生き続けてきた生き物たちです。自然科学者たちは、こういう「幻の生命体」などを「生命体」などと呼ぶこと自体を拒否すると思われます。けれども、いくら自然科学者が認めなくても、「子ども」の心に、そうした「不思議な生き物」がたくさん生きていることは誰も否定することはできないのです。
 おそらくこういう「幻の光景」と、その中にあらわれる「幻の生命体」をひっくるめて、多くの人はそれを今まで「空想」とか「ファンタジー」というふうに呼んできたんだろうと思います。でも私はここではあえて「幻の生命体」と呼んでおくことにしています。
 では、なぜ、このような「幻の光景」や「幻の生命体」のようなことをことをわざわざここで言うのかといいますと、それが実は「子ども」の「心の食べ物」になってきたという経過があったからです。先ほど、宮崎駿さんが「ファンタジー」は子どもが生きるための活力、エネルギーになるものだと言っているのを紹介し、それに関連して、「心の食べ物」の話をしました。つまり、子どもが食い入るようにスクリーンを見つめているときは、まさに、それを食べて吸収し、エネルギーに転化しているときなんですね。「大人」たちは、そのことについてのもっと深い理解が必要です。
 「幻の生命」を食べるということ、これがどういうことを意味するのかは、これから、しだいに明らかにされてゆくと思います。むしろ、そのことを考えることがこの本(『宮崎駿の「深み」へ』平凡社新書のことですが)の大きなテーマになっています。もちろん、この「幻の生命」と私が呼ぶものは、すでに多くの人によってある有名な言い方で呼ばれてきました。それは「幻獣」という呼び方です。
 社会人になり、いい年をした大人になると、この世に存在しない生き物、つまり「幻獣」などを相手にすることは、ばかばかしいと思われるに違いありません。けれども、意外に思われるかも知れませんが、心の中では、現実の動物と同じくらいに幻獣は生き生きとして生きていることがあるんです。いくら馬鹿にされようが、そういう「現実」があるんだということについてはしっかりと認識を深めておかなくてはいけません。たとえばボルヘスは『幻獣辞典』(晶文社)というものを書き、レオ=レオー二は『平行植物』(ちくま文庫)というような本を書きました。ともに、現実には存在しない動物と植物の辞典のようなものです。そんな存在しないものの辞典などを作って何になるんだ、と思われるかも知れませんが、それはそうではないんです。そこには人間が食べてきたもう一つの食物の歴史を見つめる視点があったからです。そこで私は、「幻の生命体」の中に、すでに人々に親しまれている「幻獣」以外に、「腐海」のような「幻の植物群」を説明するための「幻樹」と呼ばれる「生命体」を付け加えておきたいと思います。
 しかし、「幻獣」や「幻樹」の他に、もう一つ大事な「幻の生命体」が存在します。それは「ナウシカ」のような主人公の存在です。「子ども」たちは、こういう主人公たちをどういうふうに受け取っているのでしょうか。大人たちは、ナウシカなどを、勇敢な少女戦士のように説明されたりするのですが、そういう理解はまさしく「大人」の理解の仕方でしかありません。「子ども」たちは、「ナウシカ」を、戦士のようなものだけではなく、空を自由に飛ぶ「天使」のように見ているところもあります。「天使」などいうものは、生物学的には存在はしませんし、いわゆる「人」ではありません。そういう意味で言えば、じつは「ナウシカ」は「人」ではないのです。マンガに書かれているから人でないのは当たり前じゃないの、という意味からではありません。
 長い歴史の中には、人間のように見えて人間にはできないようなことをやってのけ、人々に不思議な希望や生きる力を与えてきた人物群がいます。それは実際には存在しないので「幻の人」あるいは「幻人」と呼ぶしかないものです。でもそのイメージは強烈で、その「幻人」の中でも最もすさまじい力をもったものを、人々は特別に「神」あるいは「神々」と呼んできたのだと理解することができます。
 さて、そういうふうに考えると、「幻の光景」に現れる「幻の生命」には、「幻獣」と「幻樹」に加えて「幻人」がいるんだということを理解しなくてはならなくなります。子どもたちは、まさに「幻の光景」の中で、そうした「見たこともない」ような「幻獣」や「幻樹」や「幻人」に出会うことで、彼らの不思議な力が自分たちを守り、強く逞しくしてくれることを感じます。そして彼らが弱い自分に勇気を与え、引っ張っていってくれることを感じてきました。そういうふうに「子ども」に「活力」を与えてくれる「幻獣」や「幻樹」や「幻人」を創造することを、宮崎駿さんは、「ファンタジーの力」と言い、「いい形で子どもたちに伝えられること」と言っていたんではないかと私は思います。