じゃのめ見聞録  No, 49


「神の声」でも裁かなければ
書評『刑法三九条は削除せよ!は是か非か』洋泉社新書2004.10






第39条 心神喪失者の行為は、罰しない。
   2 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。 


 この「刑法39条」の是非を巡って9人の論客が、それぞれの立場で鋭い論陣を張っている。条文を遠目に見ている段には、いいとか、悪いとかいってすませていられるのに、根拠をあげてその、いい・悪いを説明しなさいと言われたら、はたっと困ってしまう。自分が困っているのだから、この9人の論を読んで、それぞれに「そうだな」と思わないわけにはゆかない。そんなことになるのは、わかっていたのに、なぜ書評を引き受けたのかということになるのだが、それには、私が以前からもっていたある疑問があったからだ。そのことを語って書評にかえさせてもらえるとありがたい。

 8月のアテネオリンピックで何よりも心に残ったのは、あの男子マラソンの一位の選手に一人の男が走り寄った事件だった。「なんてことをしやがるんだ、あのバカは!」という言いしれぬ怒り。その後、その男がアイルランドの「司祭」であることが報じられた。罰金を払って彼は釈放され、日本のテレビ局が彼を追いかけて取材に行っていた。イギリスはロンドンの小さなアパート。そこには手作りの、体にぶら下げるプラカードが何枚も保管されていた。アテネのマラソンの時も、「キリストの再臨は近い」と書かれた布を身につけていた。
 「神の声」が聞こえたのだそうだ。「世界の人の目を、最も偉大な書物・聖書に向けさせる行動をする」ようにという「神の声」が聞こえたのだそうだ。錯乱とは言わないが、ひどい妄想というか勘違いだ。端から見たら、そうなのだが、この男からしたら、「神の指示」どおりにしたにすぎないことは、映像を見てよくわかった。法を犯したことを後悔していないと言っていた。彼は十分に正気だった。テレビ局の取材班には、マラソン選手には悪いことをしたと謝ってはいたが、私には本当にそう思っているようには見えなかった。
 この書評を書くに当たってすぐに思ったのが、このアテネの事件であり、そして、また私のずっと心に残ってきているある一つの本のことであった。その本は、『アドラーの書』と呼ばれる奇妙な名前の本で、ほとんど知られていないけれどキルケゴールの著作である。知られていないのは、何度も書き直しされたのに、生前は出版されなかったということもあるが、それだけが理由ではなかった。アドラーとはキルケゴールと同じコペンハーゲンに住む一歳違いの知り合いの牧師の名前である。彼は30歳の時に「聖書に帰れ」という「神の啓示」を聞いたという説教集を出して、国教会と争い沙汰になり、「精神錯乱」とみなされ一年後に牧師の職を罷免されることになった。この「出来事」を誰よりも重く受け止めたのがキルケゴールであり、そのことについて彼は何度も思索を練ったのである。アドラーが「神の声」を聞いたということは、どう考えるといいのかと。
 アドラーが問題の説教集を出した1846年6月の4ヶ月あとにキルケゴールは有名になった『おそれとおののき』を出版することになる。その本で取り上げられたのが、アブラハムが「神の声」を聞いて息子をいけにえに捧げようとした話である。キルケゴールの目をつけたのは、もちろんアブラハムの話そのものであるが、もう一つ奇妙な話を取り上げていた。それは、そのアブラハムの話を教会で聞いたある男が、家に帰ってから、自分をアブラハムになぞらえて、自分の息子を生け贄に捧げよう(殺そう)としたという話である。
 もし一人の男が「我が子」を殺したときに、「アブラハムもそうしたじゃないか」とか、「教会で聞いた素晴らしい話の通り、自分もそうしたのだ」というとしたら、彼は「まともな精神状態」ではなかったとみなされるだろう。いくら「神の教え」であろうと、「人を殺す」ようなことをする者は、「ふつうの状態」ではないといわれるだろう。だから、アテネのマラソンを妨害した男が「神の声」を聞いたなどというのもおかしいし、街の一牧師アドラーが「神の声」を聞いたとなると、それは「神の名を語る嘘つき」か「精神錯乱」というような「診断」を下さないといけなくなるのである。
 キルケゴールもアドラーは「おかしい」と判断する。「まともではない」と考えている。しかし、振り返ってみると『聖書』を読みながら、そこから日々「神の声」を聞いたかのように振る舞っている自分は一体アドラーとどの程度違っているのか、という疑問にも彼は突き当たっていた。
 翻って考えてみると、奇妙な殺人事件が起こるときには、たいてい加害者が「変な声」に指示されていることが多い。神戸児童殺傷事件の時も「バモイドオキ神」という「神の声」が関与していたし、地下鉄サリン事件の時も「オウムの声」が実行犯たちを突き動かしていた。
 私たちは日常生活をおくるのに、どうしても「人を殺さなければならない」という状況に出くわすことはまずないといっていいだろう。そんな状況下で、それでも「人を殺す」ことを考えるとするなら、そういうことを正当化する「話」を創り上げ、そのストーリーを実行するための「後押しする声」をしっかり創り上げなくてはならない。これが「神の声」であるか、「魔物の声」か「妄想の声」なのか別にして、そこで「日常生活(倫理)では通用しない発想の声」を「聞く」ことになるのである。その「声」をここで「非倫理の声」と呼べば、そういう「非倫理の声」を聞くことは、私たちの場合、たしかにあるように思われる。
 先日死刑が執行された詫間守は、自分に何の関係もない児童8人を殺害していたのだが、彼の頭の中では自分が入れなかった有名小学校・・・うんぬんとう「物語」が創られていて、殺された子どもたちも彼の頭の中では「関係者」になっている可能性があった。それは完全に「妄想」であるが、しかしその「創られた物語の声」を聞く詫間を、誰も止めることは出来なった。アテネのマラソン選手を襲った牧師を誰も止めることが出来なかったように。
 しかし、時間をかければ、詫間の胸の中に「別の話の筋」を産み出す機会を与えることはできると思う。そうして自分のやったことの愚かしさを悔やませることはできると思う。できると思うけれど、そういうことと、「刑」の問題は同次元では語れないだろうとも思う。


 結局こういう「非倫理の声」で動いてしまった者たちをどう考えるのかということである。くり返して言うことになるが、私たちは誰でも「日常(倫理)を生きる声」に沿って暮らしながら、どこかで「日常(倫理)を越える声」を聞いて暮らしている部分がある。そうした「日常を越える声」、つまり「神の声」や「陰の声」や「妄想の声」などを聞いて行動したことが、「日常の生活」を破壊するように動いたとき、それを「信仰」のためや「心神喪失」「心神衰弱」として、犯した「罪」を免責してあげることができるかということである。
 キルケゴールはアブラハムの物語に対してこういう有名な問いを立てた、「倫理的なものの目的論停止というものは存在するか?」と。つまり「倫理の声」を停止してまで許されるような「声」があるのかという問いである。それはない、というのが「沈黙のヨハンネス」(『おそれとおののき』の名目上の作者)の考えたことであった。(ちなみに言えば、キルケゴール自身は「例外」を認めようとしていたが、それは「法=倫理」に対しての「例外」という発想からではなかった。というのも、「神の声」を聞く者はいないなどというのは、彼にとってはあり得ないからである)。私も「倫理」からの「例外者」を認めることはできない。「例外」を認めることは、「神の声」を聞いて殺戮に走る者を認めてしまうことになるからだ。「ジハード(聖戦)」を叫んで自爆する若者や、「サリンを蒔く信者」や、かつての日本の「特攻」の若者も、それぞれに「神の声」に従っていた(もちろんすべてではないが)。そういう意味から考えて、私も、「倫理の目的論停止」は存在しないと考えたい。だから、たとえ「神の声」に従った行動でも、「精神錯乱」「心神喪失」「心神衰弱」でも、状況の程度に合わせた「適切な裁き」を受ける仕組みにしておかなくてはならないのではないかと思っている。大事なことは、「状況の合わせた「適切な裁き」」を考えるということであって、「裁き」をせよ、とか、しなくてもいい、といったような二分法ではないことは、この本の筆者達が総じて論じていることであると私は感じた。
 ただ、私のその判断を推し進めて、もし「倫理の目的論停止は存在しない」ことを大まじめに考えるとしたら、同じ論理で私は「死刑」の執行の是非についても考えなくてはならなくなる。「死刑」というのは、人を殺してはならないという「倫理」に反することになって、ある意味での「倫理の目的論停止」になっているようにも考えられるからである。   
(『樹が陣営28号』2004.11.20)