じゃのめ見聞録  No, 48

   『彩花へー「生きる力」をありがとう』
(河出文庫)を読む

      

2004.8.20



 1997年の春、史上まれに見る凶悪な犯罪が起こった。中学三年A(十四歳)による、「神戸児童連続殺傷事件」と呼ばれてきた事件である。そこで三人の小学生が、犠牲になった。そのうち二人、山下彩花さん(十歳)と土師淳君(十一歳)は、残忍な手口で命を奪われた。子どもを育てたことのある人なら、自分の子どもがそういう目に合わされたときのことを思ってみて、心が張り裂けるような、心が煮えたぎるような、悲痛な思いを想起されただろうし、ひっとしたら半狂乱のようになってしまうのではないか、と思われたに違いない。
 そんな中で、山下彩花さんの母親、山下京子さんが、この事件に巻き込まれていった我が子の経過を、『彩花へー「生きる力」をありがとう』河出書房新社1998(のち文庫本化)としてまとめて出版された。私はこの本が出たときに、「「生きる力」をありがとう」と書かれた題が気になっていた。事件が事件だっただけに、題から中身が想像できなかったからだ。読んでみるしかないなと思った。読んでみて、やはり想像していたこととはだいぶ違っていた。うまくは言えないが、「耐え難い悲しみ」を乗り越える契機は、なんとしても家族が「出来事」の中から見つけるしかないのだと思った。だから、この「契機」を理解するために、私たちも事件後の経過を、少し具体的にたどってみたい。
 3月16日に事件は起こった。 彩花さんが、少年Aに後頭部を金槌でなぐられて病院に担ぎ込まれた。その時の様子はこう書かれている。

 彩花は中央市民病院四階にあるICU(集中治療室)に運ばれました。点滴の針が・細い腕にいっぱいつけられています。(略)私は、怖くて怖くて彩花の顔を見ることができませんでした。夫は、傍らで彩花の髪の毛や顔、体をそっとなで続けていました。「彩花、頑張ろうな」「痛かったな。かわいそうに」意識不明のまま眠り続ける彩花に、夫は語りかけていました。彩花は何者かに凶器で殴られたとしか考えられない…。彩花のケガの状態は、事態を雄弁に物語っていましたが、まだこの段階では、どういうことが起きていたのかわかりませんでした。(略)翌十七日になると、彩花の頭部や顔が膨れてきました。能が大変な損傷を受けていたためです。p89
『彩花へー「生きる力」をありがとう』河出書房新社1998

 問題はこの顔の腫れにありました。見るも無惨に膨れあがった娘の顔をみて、ご両親は大きなショックを受けることになる。事件に巻き込まれたということだけでも信じられないのに、こんな無惨な顔をしたままで、命は助からないと言われたことに、二重のショックを受けてしまわれた。可愛かった自分の娘が、何でこんなひどい顔にならないといけないのか。
 もちろん「事故」というのは、どこにでも起こりうるものである。日本中では、一時間に何人かは、交通事故でなくなっている。そこでは、こういう可愛い娘さんが、無惨な亡くなり方をしていることもあると思う。しかし、納得は出来ないにしろ、事故にはそこに至った経過がわかるところがあり、無理矢理にでも納得させられる要因を求めることができるものだ。無理な追い越しをしょうとしたとか、居眠り運転をしてしまっていたとか、欠陥車の大型トラックが突っ込んできて避けられなかったとか・・・。事故の事実解明は別にしても、そうやって亡くなった人の「理由」は、いろんな理由をつけて仮りにでも納得させてゆけるものがある。そうしないと、いたたまれないからだ。しかし彩花さんの場合は、そういうふうにはゆかなった。あまりにも状況は理不尽で悲惨なものだったからだ。

 二十日になりました。彩花は、相変わらずひどく膨れたままです。(略)二週間のうちに彩花が亡くなることがあれば、こんなに膨れた顔のまま、この子は人生を閉じることになってしまうー。母親として、それだけは避けたいという思いでした。
 彩花は、目をうっすらと開いたまま昏睡状態になっていました。それで眼球が乾いてしまってはいけないと、濡れガーゼで目もとを覆ってやってしました。
 私は、時折そっと、そのガーゼをめくって彩花の目を見つめ、話しかけてやりました。すると、彩花の目から涙が出ていることがありました。意識を失ったままの目の端から、ツーッと涙が伝い落ちるのです。彩花はうれしくて泣いているのだろうか。その涙を見て、私は思いました。
 この二十日の夜から、私は彩花のそばでビデオを流してやりました。アニメの『ドラえもん』と『日本むかし話』です。二十一日には、一日中ビデオの音を聴かせてやりました。p94

 こんな状態の我が子を見続けていなければならないとは、なんと残酷なことであろうか。この時の両親の頭の中に渦巻くことは、こんな事になったのがなぜ「彩花」だったのか、ということであった。子どもたちはいっぱいいるじゃないの。なぜ、その子たちじゃなくて、私の子だったのか・・・答の得られない問いの周りを、ご両親はただぐるぐる回るしかない。「なぜ、それが彩花だったのか」「あの日、外を歩いていた子供は決して彩花だけではない」と京子さんは書いておられた。当然の疑問であろう。「人通りの多い大都会の住宅地で、恐ろしいまでの偶然が重なり、絶対に出逢うはずのなかった時間と場所で、彩花は少年に出逢ってしまった」のだから。
 生死の狭間を見つめる看病の中では、なにをどう考えても、らちがあかないのだが、そんな中で自分や娘の状況を納得させる考え方として、京子さんはそこでふと「運命」というものを考えたりしている。ひょっとしたら、これは娘の「運命」だったのだろうかと。無茶な考え方ではあるが、そうでも考えないと、そこにいたたまれなかったのだろうと思う。納得ができないのである。心の動きとして「彩花は、出逢うべくして少年と出逢って」いたのではないかと考えると「つじつま」があってくる。私は、こういうときに、人はどういう考えにすがろうとするのか、見当も付かないので、京子さんのこういう判断にコメントはできないが、ここではせいいっぱいのことを考えておられたんだと私は思う。ただ、そうことを考えながら看病をされる中で、彩花さんの様態が思いがけない方向に動いてゆくことになる。

 二十一日(金曜日)。この日からドラマが始まりました。
 先生から二週間は続くといわれていた彩花の頭部のひどい腫れでしたが、このよみがえ日、スーッと腫れがひき、生き生きとした血色が顔に蘇ってきました。血圧も、上が一四〇から一五〇、下が九〇から一〇三へと、著しく上昇しました。さらに、あれほど弱々しかった自発呼吸が、力強く、しっかりと蘇りました。昏睡状態が続いていることを除けば、まるで彩花の病状がみるみる回復したかのようでした。それは、少年の凶行など、彩花の生死を微塵も左右するものではないことを、彩花の命の力が高らかに宣言したようでもありました。(略)
 二十二日(土曜日)になると、彩花の顔の表情に変化が出てきました。それまで無表情に眠っていたのが、笑ったような柔らかな表情になってきたのです。大変な重傷を負って、苦痛にさいなまれていてもおかしくないのに、彩花の寝顔は楽しい夢を見ているような顔でした。

 この二日で、彩花さんの顔の腫れがウソのようにひいてきたのである。こういう娘の急激な変化を目の当たりにして、京子さんは、こういう変化に、尋常なものではない高貴なものを見た思いになるのである。そしてそれが仏教の輪廻的な考えにそうようなことも感じてゆく。その考えは、娘の苦しみが、決して理由なく起こったものではないことを自分に納得させてくれるように感じたからである。ここでも、私はこれ以上、こういう京子さんの心の動きにコメントすることはできないのだが、何とか娘の苦しみが無駄なものではないように感じたいという思いは、私にはよく伝わってくる。そういう発想の根っこが「仏教」にある? かつて武田泰淳は「滅亡について」というエッセイでこう書いていた。

 「滅亡を考えることには、より大なるもの、より永きもの、より全体的なるものに思いを致させる作用がふくまれている」『滅亡について』岩波文庫1992

 「くずれゆくもの」が見せる「至高性」。おそらく京子さんは、この時、自力でそういう「至高性」を感じ取ろうとしていたのではないかと思われる。
 この頃、京子さんの友人が、ヘッセの詩の載った新聞の切り抜きを持ってきてくれる。そこには「人生を明るいと思う時も、暗いと思う時も、私はけっして人生をののしるまい」「日の輝きと暴風雨とは同じ空の違った表情に過ぎない。運命は、甘いものにせよ、にがいものにせよ、好ましい糧として役立てよう」(『ヘッセ詩集』高橋健二訳、白鳳社刊)と書かれてあった。それを読んで京子さんは「たましい魂に電流が走る」のを感じる。「運命」という言葉が、心に響いたのかもしれない。まさに、自分のことを書いてくれているように感じたのであろう。たかが新聞の切り抜きと思われるかもしれないが、出会いはそういうところにもあるのだなあと思う。

 厳しく、深い、魂を叩きのめすような、しかも、強く強く抱きしめてくれるような世界桂冠詩人の言葉でした。この言葉を目にしたとき、私の心が決まりました。
 もしかしたら、彩花はこのまま一生、眠り続けたままかもしれない。いや、亡くなってしまうかもしれない。もちろん、そんなことはあってほしくないが、そうなるなら、それを受け入れよう。私は負けない。これが自分の現実の人生なら、それらを恨んだところで何も生まれない。立ち上がるしかない。(略)
 そう心が決まりました。
 私がそう思えたのも、彩花がこの一週間の間に見せてくれた姿があったからでした。突然の出来事にすっかり混乱し、振り回されていた私のそばで、当の彩花は医師の予想を覆し、命の凄まじい力を見せてくれました。本当の意味の「生きる力」というものを、母親の私に教えてくれました。私は、何があっても顔を上げて生きるという決意を彩花に伝えようと、集中治療室に戻りました。するとどうでしょう、決意した私の心をすでに知っていたように、彩花は今までとは比べものにならないほど、にっこりと微笑んでいるではありませんか。目もとじわには明らかな笑い激ができ、口の両脇にも笑った薮ができていました。
 それは、「お母さん、よかったね。大事なものを手に入れることができたね。これで、彩花は安心できた。お父さん、お母さん、本当にありがとう」
 そう語りかけるかのような、信じがたい笑顔でした。そして、それから三時間ほど経った午後七時五十七分、彩花はこぼれるような笑ゆうぜん顔のまま、悠然と旅立ったのです。

 少し長い引用をしたのも、ここには二つの「語りかけ」のことが重ねて書かれていたからである。一つは、娘の最後の日に、ヘッセの詩を読む機会があったということ。ここで、親は自分たちに向けて「語りかけ」をしてくれている人の声を聞いたのである。普段なら、新聞に載っているこういう詩に注意を止めなかったかも知れないし、友人も同じであったであろう。こういう時であったから、友人も新聞の詩に目が止まり、それを切り抜いて母親に届けようという気になったのであろう。「語りかけ」は、そういう態勢に入らないと聞くことはできないもののように思えるからだ。
 もう一つは娘からの「語りかけ」を聞いたような体験のことである。娘は、本当なら笑うこともできないほど顔を腫らせていて、医者はこのままであろうと予想していたのに、その状況をはねのけて、腫れを引かせ、微笑むまでになっていった。それは娘の意志のなせる技としか考えられない。そういう意志を見せることで、自分でもこんな状況でも笑うことができるのだから、お母さんも泣いてばかりいないでがんばって生きていってね、と言っているように感じたのである。娘からのその「語りかけ」を受け止めて、京子さんは「立ち上がる」ことを決心した、と書いている。自分も彩花の生きようとする意志を受け継いで立ち上がらなくてはならないのだと。それが娘からもらった不思議な力なのである。この本の副題となる「生きる力」をありがとう」という言い回しが生まれてくることになる。
 今までの経過を見てゆくと、やはり気がつくことがある。それは、顔が腫れ昏睡状態にある彩花さんに、両親が絶えず「語りかけ」をし、好きだったアニメのをかけ続け、その働きかけを絶やさなかったというところである。その結果(というふうに本当はならないのだが)、彩花さんが奇跡のように、それに応じて腫れを取り去り、笑みを見せるようになっていった。そしてそこに京子さんは、何かしら不思議な「力」を感じ取ることになるのである。なぜここにきて「彩花が微笑んでいる」のか。そこで京子さんは、その微笑みが、自分たちの精一杯の「語りかけ」に、この子が答えてくれた姿なのではないか、と感じてゆく。「生きる力」それは、まさに親の「語りかけ」に応じて、彩花さんが「答えてくれた力」のことだとここでは感じられている。こういうことは、どういう風に考えればいいのだろうか。京子さんが、頭の中で勝手につくりだした、つごうのいい妄想だと考えていいのだろうか。
 私は事件が起こってからの、この一週間の間に、家族が病室で向かい合ったものは、確かに顔の腫れ上がった変わり果てた娘の姿ではあったが、実際には「語りかけ」ていたのは、腫れた顔の奥にある「あなた」の存在ではなかったかと思う。京子さんは、この「あなた」に向かって「語りかけ」、そしてその「あなた」からも「語りかけ」を聞いていたのではなかったかと。一週間という短いひとときではあっただろうけれど、私は、病室という空間で、滅びゆく何かをじっと見つめながら、でもその姿はどこかで自分とつながっているのだという、そういう「カップリングの生」を激しく感じておられたのではないかと思う。本の題につけられた「「生きる力」をありがとう」の「生きる力」という意味は、実際にはそういうところで感じ取られていたものではなかったかと私は思う。




 ■ 亡くなった後で

 彩花さんが死亡された後に、警察は司法解剖をすることを両親に告げる。その時にご両親は心配される。せっかく取り戻した娘の微笑みが、解剖でまた消えてしまうのではないか、という恐れられたからだ。「何より気懸かりだったことは、解剖されることで、彩花のあの最後の笑顔が消えてしまうのではないかということでした」と。そんな姿で葬られることになるのは、なんとしても避けてもらいたかったのである。しかし、検死は実施された。

 三時間待って、検死が終わりました。待っている私たち夫婦のもとに、刑事さんが駆け寄ってこられました。「もっと、きれいな顔になっとうで」そういって、刑事さんは泣いてくださいました。刑事さんが思わずそう叫んで涙を流されたように、検死を終えて出てきた彩花は、逝去のときよりも、さらに一段となごやかな表情になっていたのです。p108

 親であれば誰もが願うことである。この時の刑事さんの涙は、この下りを読む私たちの涙でもあるだろう。本当によかったなと私たちも思う。それから、事件から六ヶ月たった九月のことを「あとがき」で京子さんはこう書いていた。

 九月のある日の夜、私は団地内の自治会の役員会に出ていました。帰り道を急いでいると、誰かに呼びかけられたように思いました。「山下さん」と呼ばれたのか、「お母さん」と呼ばれたのか、とっさのことで覚えがないのですが、しかし、私は後ろの道を振り返らずに、まっすぐに後ろの空を見上げていました。そこには煌々とした月が出ていました。満月に少し欠けたような、それでも幻想的な光を放っている月でした。もともと月が好きだった私は、その美しさに見とれ、しばらく団地内の車道の真ん中に立って空を見上げていたのです。もようそのうち、月の模様が、なんとなく顔に見えることに気がつきました。あそこが目、あそこが口…、彩花の顔がクッキリと浮かんでいたのです。少なくとも、私には娘の顔がありありと見えたのでした。

 この時、京子さんはあわててダンナさんを呼び、わけを話し、急いで写真をとってもらうように言ったらしい。そうして見ていると、まさに月の中にそういう娘の顔が見えてきたのである。「何回かシャッターを切って、「空の上から、いつも見守ってくれてるんやねえ」涙でつまりながら夫にいうと、夫も泣いていました。「彩花」と、絞り出すような声でいったあと、大きな背中を震わせて泣いていました」と京子さんは書いていた。親であれば誰でも身につまされるような場面である。そして十一月になり、母親ははじめて娘、彩花さんの夢を見ることになる。

 十一月三日の未明、彩花が亡くなって以来、初めて彩花の夢を見ました。夢のなかで、私と彩花は連れだって歩いています。たぶん、買い物の帰りでしょむしようう。なぜか無性に彩花がいとおしくなり、「彩ちゃん、だっこしたろか」と私がいいます。「うん」私は、素直に答えた娘を抱き上げました。ズシリとした重みが両手に伝わります。「彩ちゃん、重たくなったなあ。お姉ちゃんやもんな」そういうと、恥ずかしそうに微笑んで、「お母さん、人が見とうから、彩花恥ずかしいわ。あのクリーニング屋さんで降ろしてな」といいました。その場所は、見たことがあるようなないような曖昧な場所なのですが、マンションや一戸建てが立ち並ぶ住宅街の一角でした。約束のクリーニング店の前に着くと、彩花は少し体を硬くして、私の手から降りる準備をし、「お母さん、ありがとう」と、はっきりいってくれたのでした。今度は、彩花の左手と私の右手をしっかりとつなぎます。彩花は車道側を歩いていたので、私は手をつなぎ変えて、彩花と入れ替わろうとしました。その手の温もりが、今でも確かな温かさとして右手に残っています。「どんなことがあっても、この子を守っていかないといけない」そう心に思ったとき、目が覚めました。あまりにリアルな光景だったために、すぐには今のが夢だとはわからなかったほどです。

 あとがきにしてはあまりにも不憫な光景である。でも、ここではただ夢を見たと言うことが書かれているのではなく、まさに夢の中で「語りかけ」をしている母子のことが書かれているのである。彩花さんが亡くなって八ヶ月、その間に両親は、いろんなふうにして娘さんのことを思い出していたのだろうと思う。でも、娘のことを夢に見ることはなかった。それが、この頃になってようやく、亡くなった彩花さんと向き合うことが出来るようになっていったのではないかと私は思う。そういう心境がようやくこういう夢の中の会話として表されることになっていたのではないかと。
 私は、ナチスの収容所で、生きているのか死んでいるのかわからない妻と語ることで、自分を支えていたフランクルのことを思い出す。人は、亡くなった人からも、いろんな「力」をもらうことはできるのであろう。その人と向かい合おうとすればのことであるが。





3 犯人の少年に「あなた」と呼びかける


■ 犯人の中学生Aに「あなた」と呼びかける

 本の最後で、母親の京子さんが、犯人の中学生Aに向けて語っているところがある。少しだけ引用してみたい。

 今、あなたに会いたいような、絶対に顔も見たくないような複雑な思いでいます。私たちの宝物だった、たった一人の愛娘を、あんなかたちで奪い取ったあなたの行為を、決して許すことはできません。
 母であるがゆえに、娘がされたことと同じことをしてやりたいという、どうしようもない怒りと悔しさと憎しみがあります。その一方で、これもまた母であるがゆえに、iんなに時間がかかってもあなたを更生させてやりたいと願う気持ちがあることも嘘ではありません。一見、相反する感情が、私の心の中に同居していて、その割合の比率は日々同じではないまま、不思議なバランスを保っています。 p194

 そしてそういう母親の気持ちを書き綴りながら、その最後に「共に苦しみ、共に戦おう。あなたは私の大切な息子なのだから」という不思議な一節を書いて、京子さんはその文章を締め括っていた。しかし、なんで自分がこういうふうな締めくくりをすることになったのか、自分でもわからないということも書き添えながら。
 「こんな気持ちは、加害者と被害者という立場を超えた、自分でも説明のつかない感情です。しかし、すべて私の正直な思いなのです。彼に対し、こんな思いを抱けるようになったのはいつの頃からでしょう。もちろん、最初は憎しみしかありませんでした。彼がやったことに対しては、これからも永久に許すことはできません。それにしても、私のなかで何かがゆっくりと変わってきたことは事実でした。憎いはずの少年が、かわいそうに思えることが多くなり、あんなふうにならなければ誰にも止めてもらえなかったのかと考えると、別の意味で心がつぶされそうでした。あるいは、私自身、十四歳の息子を持つ母だから、その思いがひとしおなのかもしれません。」と。
 なぜそんなふうに京子さんの心境が変わっていったのだろうか。あんにも憎かったはずの犯人、本当はこの手で殺してやりたいと思うような犯人に、なぜそういうような「同情」に近いような感情を持つことがでてきていったのか。
 私はその理由の一つに、母親、京子さんの手記が、犯人Aを「おまえ」ではなく、「あなた」と呼んでしまっているところにあると感じている。どんな相手でも「あなた」と呼んでゆくと、そこに不思議な次元が開かれていってしまう。相手を「あなた」という丁寧な言葉で呼ぶことは、逆にどこかで、その人と「自分(わたし)」との関係を丁寧な次元で受け止めざるを得なくなることが起こるのである。京子さんがいつしか、相手の少年を「あなたは私の大切な息子なのだから」とまで呼ぶようになる心理を、一般の人は理解できないかも知れない。でも、「少年A」を「あなた」と呼ぶときに限って、京子さんは、そういう風に呼んでしまう「自分(わたし)」との共通性を感じざるを得なくなってしまうのである。
 そこのところをブーバーは、「なんじ」というのは「われーなんじ」の複合語だと言ったわけで、その指摘の深さをここでも改めて感じることになるはずである。