じゃのめ見聞録  No, 47

「相手」を見いだす作法   
ー2003年度 高校生百人一首考
(同志社女子大学編『ピクルスの気持ち』晃洋書房2004.7に収録)


2004.7.20 



 今回も、選ばれた百人にとらわれずに、心に残った歌と高校生の世界を私なりに見つめてゆけたらと思う。最初は百首の中に選ばれた一首から。

 ゆっくりと包丁もって皮をむくきずだらけの私のりんご   川内野智香

 この歌には感心した。こんな歌が歌えるんだと思った。「ゆっくりと包丁もって皮をむく」とあるから、危なかしい手先のことを想像している。案の定次に「きずだらけの私の」と来るから、やっぱりな、と思っている。手を切ったんだ、などと勝手に思っている。だから歌の最後は「私の指先」というふうなものになるはずだった。ところが、そうならずに、「私のりんご」となっていた。おお、すごい、と思った。誰もが心の中に持っている「包丁」、それが上手に使えないために傷つけてしまう「相手」がいる。
 この歌のいいところは、「自分」のことを歌いながら、それが最後の土壇場で反転して「相手」を歌うものになっているところだ。もともと、歌というのは、そういうものなのかもしれない。そういうものとは、「自分」を見つめてゆくと、ふと「誰かの存在」にぶつかるというようなこと。そういう瞬間は、きっとかけがえのない瞬間なんだろうと思う。もしも歌に作法というのがあるのだとしたら、それは「相手」を見いだす作法なのかもしれないとも思う。
 
 先生のストッキングの伝線になぜだかほっとする五時間目   梅田あゆみ

 いろんな思いが読み取れるいい歌だ。「五時間目」、自分はうんと疲れている。みんなも疲れている。きっと誰もが疲れているんだ。でも、「先生」はそうではない。先生は先生なんだから、先生が疲れているはずがない。・・・でも、なんだあれは! あの先生のストキングは?、伝線がいっているんじゃないの!! 「先生」の中にふとかいま見る「ほころび」。五時間目、先生もきっと疲れているんだ!

 道端の草に埋もれた石地蔵あせた前掛けのみ見えている  古谷望 

 味わい深い歌だ。私が見つけるもの、私が気がついたもの、それはいつも部分的なもの。全体は何かに被われていて見えない。でも、その見えないものがつけている「前掛け」だけがふと見えるときがある。見つけた!という感じ、あんなところに何かがいるという感じ、誰かがいるという感じ。「お地蔵さん」がいたんだ! その発見の感じがここで歌われている。たかが、「前掛け」ぐらいで、と思うなかれ。「前掛け」を見つけることのできる人は、きっとそんなにいないと思う。教科書の中、世界の中で、「前掛け」しか見せてくれない出来事がたくさんあります。実際には、そんな「前掛け」すら見ることができない出来事が多いもんです。

 番組の主題歌だけを聞くために少しの間チャンネル変える  谷口純輝

 あります。こういうことを、私も人生の中でしばしばやっています。世の中、好きでないものの中に好きなものが混ざっているからです。だから、その好きなものだけに何とか触れることはできないかと思案し、工夫し、やりくりしょうとしてみます。そういう気持ち、ここではうまく歌われているなと思います。「主題歌」だけを聞きたいというようなこと、ありませんか、私にはありますよ。

 自転車で夕陽見るため回り道橋の上から気持ち落ち着く  中井佑哉

 高校生の時、一番好きなのが夕焼けでした。『夕陽が泣いている』というグループサウンズの歌をよく口ずさんでいたものでした。クラブの帰りの電車の中から私はよく夕陽を見つめていました。「夕陽」というのは不思議なものです。それは雄大で、荘厳で、見ているといつも心が洗われるようでした。ちっぽけなことで悩んでいる自分が愚かに感じられましたね。でも、そんな夕陽も、それが見えるところに行かないと見えないんです。誰にでも、自分だけの「夕陽」のよく見える場所があります。この歌の書き手の見つけたその場所は、帰り道からはずれた「橋の上」でした。わざわざ「周り道」をしてまで、その場所へ行くという気持ち、わかります。君のじっとたたずんでいる姿が見えるようです。

 毎日は素通りしていたベンチでも座って気付く変わりゆく街  寺岡悠樹

 少し説明っぽいのが難点です。最後の「変わりゆく街」というのが、漠然としずぎていて印象が定まりません。でも、この歌の気がついているところはとってもいいところです。駅のベンチ、公園のベンチ、校庭のベンチ、病院の受付のベンチ・・どこでもいいのですが、少し座ってみていると、今まで気がつかなかったいろんなことが見えてきます。自分が動いているために、見逃してしまっているものが世の中にはたくさんあるんですね。「素通り」という言葉、いい言葉です。「ベンチ」という存在も気になります。「ベンチ」って、何なんだろうと思います。「歌」の生まれるところでもあるかも。

 公園の熱い蛇口に口つけて少年らまた走りつづける  仲子あゆみ  

 自分のことだけにかまけていると、こういう情景は目に止まりません。この人は公園の「ベンチ」に腰掛けていたんでしょうか。でも、腰掛けるだけでは、こういう少年達の姿に気がつきません。この歌は、真夏の昼下がり、子どもたちが公園で遊んでいる、ということを歌っている歌ではありません。そんな一般的なことを歌っているのではありません。走り回っている少年たちが、何度も「熱い蛇口」に口をつけるために戻りながら、また走っていって遊んでいるという情景を歌っているのです。つまり、水を飲みながら子どもらが遊んでいるという情景を歌っているのです。子どもが遊んでいるというところまでは見やすいですが、その子らが水を飲まないと遊べない存在なのだというところまでに気が付くことはなかなかできません。「戦後のアフガニスタン」とか、「戦後のイラク」と一口に言いますが、水道を破壊された街角で、泥水をすすって飲みながら遊んでいる子どもたちの姿を見て、ハッとしたことを思い出します。

 道ばたで恋の花でもりあがる小さな乙女小学2年  青山奈未

 くすくすと笑いながら、男の子の話をしていたんでしょうか。それともアイドル・タレントの話をしていたんでしょうか。そんな話し声が聞こえてきた。これが塾の話をしている様子なら気にはとめなかったと思う。男の子の話をする女の子たち、そこにかつての自分を見ていたのかもしれない。そんな「小学2年」の女の子たちに、この歌の作り手は「小さな乙女」を見た、と歌っている。「乙女」というのがいい。「乙女」はもうこんなところからはじまっているんだ。
 放課後やクラブ活動を歌う歌もたくさんありました。この放課後というのは、不思議な時間帯です。そこで「自分」を感じることがあり、自分たちという仲間を感じる時があり、自分の弱さやふがいなさを感じる時間が生じるからです。

  部活動いつもと同じ授業後に我にかえるわずかなひととき   梶山大輔 
 楕円球飛びかう午後のグランドを夢かなうまで走り続ける    濱西雄太
 フルートの冷たい肌から波となり無数の感情私に伝わる    藤原紘美
 あたしってこんなに弱いやつだっけ涙でかすんでよくわからない  吉沢麻里恵

 放課後が何か夢を託せる時間帯であれば、また夢を託している人を見る時間帯でもあります。それに、また誰もいなくなった教室を見る時間帯でもあります。

  グランドに一人ぽつんと走るきみそれ見てきずく私も一人だ   上野良平 
  放課後のだれもいない教室でひとり見つめるあの人の席   市田貴子

 ちょっとした「出会い」を歌う歌も健在でした。

  無理をして早い電車に乗り込むとそばから見れるあの人の笑顔  松村友里
  おはようとかわし合うときその裏にかくれた心が伝わってくる  佐々木俊亮  
  あの人に似ている姿重ねては目で追う度の小さな失望    井上彩 
  地下鉄の階段降りると彼がいてつい目をそらす帰り道   赤村祐子

 しかし、恋の歌ということになると、それはもう「ケータイ」の歌ということになるでしょう。前回では、このケータイというテーマだけで百人一首ができるのではないかと書きました。事実、増えました。しかし、あまりにも増えてくるケータイの歌を見ながら、またケータイの歌!と敬遠気味になったことも確かです。今、一番リアリティの感じられるのがケータイですから、それは仕方がないのかも知れませんが、これからの歌は、いかにしたらケータイの歌を歌わないですませられるかというようなことになってくるのかもしれません。百首の選者もケータイの歌を外し気味でした。

 午前二時切るよ切れよと笑う君携帯ごしの琵琶湖の向こう  高木ひとみ  

 少し、俵万智風の感じのする歌ですが、「午前二時」にはリアリティがあるなあと感じました。それも、琵琶湖越しに交信をしながら、「切るよ」とか「切れよ」とか言い合っている。ええかげんにせえよ、という感じですが、きっと誰にでも思い当たる光景だと思います。それが琵琶湖をはさんでという構図で歌われると、なにか絵になっていますね。

 「おはよう」と言いつつ友はメールする誰にだろうか誰にだろうか  辻本早千絵

 並んで歩いていても、心はここにあらず。わたしといるのに、誰にあいさつしているの? こっそりと打ってくれればいいものを、失礼なやつだなあと思います。でも、それ以上に、そこで「相手」が誰なのか、あらぬ事を想像する自分も嫌になるもんです。朝なのに、ひどく残酷な情景が歌われているなと思いますね。
 ケータイは、たやすく人をつなぐものなのに、たやすく人を傷つけるものにもなっています。人を瞬時にハッピーにしてくれるのものなのに、じわじわと人を拘束するものにもなっています。ケータイは現代の「アラジンの魔法のランプ」のようなものです。いいことももたらしてくれますが、嫌なことももちこみます。ケータイが、「吉」となる面と「凶」となる面の両面のあることに、もちろん若者は気がついているんですが・・。

 音楽を聴いて心を癒しつつプチプチプチとメールを打つ日々  氏野織絵  
 ケータイでメールしながら音楽聞くそれが一番幸せな時間  多島未来 
 一日のメール受信が少ないと不思議となぜか落ち着かぬ時  大江翔 
 携帯の中に彼女の着信があるだけで僕は幸せです     尾形良太
 ブルブルと着信一件届いたらどんなメールもうれしく思う   澤梨々香
 携帯を握りしめつつ眠る夜朝起きてみるとメールがいっぱい 岡田亜沙美  

 そうなんだと思う以上に、コメントのしょうのない情景です。「癒し」とか「幸せ」とか「落ち着き」とか「うれしい」といった大切な言葉が、こういう不安定で刹那的な光景の中で使われているんですね。ほんと刹那的な暮らしぶりだなって思います。

 何気ないメールの言葉に隠された切ないキモチ君に届いて 藤川さゆり  
 最近はメールばかりを使うけど伝えきれない言葉も多い   中村速人  
 メールより言葉の方が思いのにメールにたよるあわれな自分  政道純也 
 携帯で言いたいことは言えるけど会いたい気持ち押さえられない  川口佳  
 伝言のメールが届く友の声忘れてしまう心のやりとり   福井麻耶  
 がんばれ友にメール送っても返ってこない自分にがんばれ  尾本正行  

 メールの便利さ気軽さと、相手の生の言葉、生の笑顔や身振りや温もりを伝えないことの間のギャップ。メールのリアリティは、実生活のリアリティとは違っているんですね。そのことに気がついてはいても、もはやケータイのない時代に戻ることもできません。えらい時代に入ってしまったもんです。

 街歩くみんなの目線ケータイへ画面の奥は見えない友だち  大西麻耶  
 小学生うつむきながら歩いてるよく見てみれば携帯族!  桜田奏

 最後に、この高校生短歌集が、いったいどういう地域の高校生に読まれているのか、少し気になっています。日本には、山や海や雪や雨や畑やビルやショッピングセンターやりんごやたんぽぽなどがいっぱいあって、そうしたたくさんの素材を生かして人間関係を歌ってきた「伝統」があるわけですが、その「伝統」の「味」というか「おもしろさ」が、うまく「伝承」されていないことをどこかで感じます。ケータイのようなものだけが、歌の素材に使われてゆくのは、やっぱり寂しい。
 もう一つ気になったのは、創刊号にも第二集にも共通して、思春期の性的な世界が見えてこなかったことについてです。もちろん、性的な世界にのめり込む若者は、短歌どころではなくなるということはあるでしょう。でも、性的なものというのは、夢想や想像も含めて高校生には、あって当たり前の健全な世界だと私は思います。ただ、そういうものを歌うには、ちょっとした技術がいりますし、それ以上に勇気もいるもんです。

 日が沈みきみと二人でぼくの部屋ぼくの心は野獣の心   山崎龍太 

 勇気は買いましょう。この歌ぐらいしか、自然な欲望を歌う歌はなかったのですから。でも、歌はおせじにもうまいとは言えません。性的な関心を「野獣の心」と形容するのはやっぱり通俗的ですから。「野獣」って何なんですか。二人でいるところに湧き起こってくる名付けようのない情念は、豊かな感情でもあると思います。それを「野獣の心」と言ってしまうのはやはりもったいない。
 私は、高校生の歌に、欲望や性や悪に触れる歌があってもいいと思う。また、遠慮無しに、そういう歌が出せる投稿の仕組みがあっていいと思う。たとえば、匿名やハンドルネームや詠み人知らずでもOKというような仕組み、あるいは、先生の次元で、そういうものをスクリーニングしないというような工夫など。自分の名前が出るのが恥ずかしいと思う学生と、学校の名前が出ると恥ずかしいと思う先生がいたら、選ばれる歌はつい優等生的なものになる可能性があるのでは、と思いますから。
 また、対象は高校生ということなんですが、できるかぎり多くの高校生が対象にされるといいと思う。学校にはこられないさまざまな高校生、たとえば不登校の高校生、重い病気のため病院の院内学校にいる高校生、定時制や通信教育の高校生、少年院や女子少年院にいる高校生なども含めて。むしろ、閉ざされた暮らしをしている人たちにこそ、たくさん歌うものがあるのではないかと思う。この歌集が彼らに届けられて、歌が自己を表現する手段になることを感じ取ってもらえるといいと思うし、さらにそこから自分も書いて投稿してみようと感じてもらえるようになったらなおいいなと思う。