じゃのめ見聞録  No, 46

沖田総司と新島襄の「1864年6月」

2004.6.10 



 NHKの大河ドラマ「新選組」は、若い女性たちに人気があります。人気のお目当ては、もちろん近藤勇役の香取真吾、土方歳三役の山本耕史、沖田総司役の藤原竜也、斎藤一役のオダギリジョーなどの配役陣にあります。脚本が三谷幸喜だというのも大きな理由です。三谷だからというので私も見ています。京都の観光地も、久々に「新選組巡り」をする若い人たちでにぎわっているらしいです。だからというのでしょうか、ケチもいっぱいつけられています。あんな、新選組は新選組じゃねえよ、と。実際には誰も見たことのない近藤勇や土方歳三などをめぐって、俺は見てきたんだぞと言わんばかりの議論はにぎやかです。脚本が三谷幸喜なんですから、目くじらを立てて見る方が間違っているんですよ。
 ところで、新選組の大きな山場は、元治元年(1864)6月5日の池田屋事変です。この池田屋の襲撃事件で、後の明治政府の重要な担い手になるはずだった勤王の志士たちが惨殺されています(死傷者の総数は20数名といわれます)。この時、池田屋に切り込んだのは、新選組のたった7人とも言われていますが、そこで先陣を切ったのが近藤勇と当時21歳の沖田総司の二人でした。沖田は新選組の中でも突出した剣の使い手で、新選組一番隊隊長に任命されています。彼は若くして何人の人を切ったのはわかりませんが、記録されているだけでもかなりの人数にのぼると思います。
 ところで、この沖田総司と同い年の若者を私たちはよく知っています。それは新島襄です。沖田総司は天保13年(1942)年生まれで、新島襄は天保14年1月生まれですから、ほぼ同い年です。この二人は、ただ同い年というだけにとどまらずに、元治元年(1864)の6月に、それぞれに大きな出来事を起こしています。沖田は池田屋への襲撃事件ですが、新島は幕府のご禁制を破って函館を脱出し、米船ベルリン号に乗り込んだことです。池田屋事件のわずか10日のち、元治元年(1864)6月14日のことでした。二人の若者の運命がこの6月に分かれました。
 新選組は貧しい百姓のせがれ達が「剣」を学んで「武士」になろうとした集団でしたが、新島は「武士」でありながら「剣」を捨て、「武士」を捨てる道を選びました。同い年の若者でありながら、こうも生きる道を違えていったのはどういう理由なのか、調べてみたいとは思われませんでしょうか。
 話は飛びますが、新島は乗船した二番目の船のテイラー船長から「Joe」と呼ばれることになります。のちに「Joe」は「襄」という字を当てられてゆくのですが、この「襄」という漢字は、まさに新選組の登場した時代のキーワード「尊皇攘夷」の「攘」に似ています。もちろん偶然なんですが、「襄」と「攘」を比べてみるのも、とっても面白いものです。もともと「襄」という字は、「衣」の上に「口」二つを置いた図形なんですが、「口」二つは女性の乳房とも、祝いの容器とも言われ、豊饒のシンボルとか、その豊饒力を使っての邪気を追い払う呪器のようなイメージで受け止められてきています。「お嬢さん」というときの「嬢」が「女」に「襄」と書くのも、もともと「襄」が豊満な胸をもった女(巫女)の力の形象から来ているからでしょうし、その力で邪気を払うところから「攘」という漢字が生まれ、それが「尊皇攘夷」の「攘」に使われていったという推移も、たどってゆけば興味深いものです。
 でも、というか、ところで、といえばいのか、新島襄の「襄」が「豊かな女性」なんだとしたら、彼は同志社大学ではなく、同志社女子大学の方に入学手続きをしてもらわなくてはなりません。