じゃのめ見聞録  No, 45

信号待ちのつらさ


2004.5.10 



 今出川通りに面した同志社大学から同志社女子大学に渡る間に一つの信号があります。ほとんど車の通らない道にある信号です。私は左右を確認して、車のいないときはさっさと渡ってしまいます。それだけのことなら、話はそれで終わりなのですが、その時にいつも私は「小さな葛藤」を感じるので、その気分がいつも少し後に引きずります。もちろん、ものの数分も歩けば、忘れてしまう気分ですが、それでも毎回(毎年?)のことだから気になっています。
 それはどんな「葛藤」かというと、一つには赤信号なのに自分は渡っているという後ろめたさです。それがまず嫌なのです。じゃあ、赤信号の時に待っていればいいじゃないの、ということになりますが、何も車が通っていないところで、信号が赤というだけでいい年をした大人がじっと立って待っている自分を想像すると、それもまた馬鹿馬鹿しく見えて、いや、むしろそっちの方がすごく嫌な気分になるのです。
 でも、本当の「葛藤」はそういうところにあるのではありません。一番の「悩み」は、その信号のところに大学生がいるときに感じる気分にあります。学生の中には、車のいない赤信号の前で律儀に信号待ちをしているものがいます。そんな学生の面前で、臆面もなく赤信号をすたすた渡る度胸というか勇気がなくて、しばしば、学生と並んで、ほんとに車のない赤信号の前でじっと待っていることがあります。その時の馬鹿馬鹿しさったらありません。でも、その時の私の気持ちの中では、学生から、あの先生は信号を無視する先生だと思われたくないという気持ち、つまり「いい先生と」「法をきちんと守っている先生」して見られたいという気持ちと、あの先生は、車の通らない信号の前でじっと待っている融通性のきかない馬鹿な教師だと思われたくないという気持ちの、その両方の「葛藤」で揺れているんです。
 さらに困る時があります。それは、その信号のある道が幼稚園児の通り道になっているので、ときどき母親と手をつないで赤信号を待っている子どもと向かい合ったりするときです。そういう時は、いくら車がなくても、全くもって赤信号を渡ることはできません。子どもの前で、信号を無視する大人の姿を見せるわけにはゆかないからです。たぶん、母親はこういうでしょうから、「あんなおっちゃんみたいになってはあかんのんよ」と。
 いやはやつまらないことで悩むんですなあ、と笑われてしまいそうです。きっと小心者だからそんなささいなことが気になるのかも知れません。ただ、その時にふと、入学式や卒業式で語られる「新島精神」とか「新島スピリッツ」と言われているもののことを想像してみたりすることがあります。「新島スピリッツ」を受け継いでいってくださいといわれる祝辞のことです。でも、私はほんとにふと思ってしまうのです。新島は「赤信号」を無視してアメリカへ渡ったのではなかったのかと。
 たぶん、明日もきっとあの赤信号の前で、「いま、新島襄になるべきか、ならざるべきか」なあ〜んてことで悩んでいる私がいるでしょうから、見つけたら苦笑してやってください。