じゃのめ見聞録  No, 44

誰が「人質」だったのか
ー『走れメロス』との接点もたどりつつー
      

2004.5.10




1 事件の「仕掛け」とその「わかりにくさ」

 通称「日本人人質事件」と呼ばれてきた「事件」は、いろんなことがよくわからない「事件」だった。
 突然、三人の日本人が拘束され、「3日のちに自衛隊がイラクから撤退しなければ人質を殺す」という「犯行声明文」らしきものから「事件」がはじまった(4月8日)。「3日のち」という期限設定も非現実的だったし、民間の人間の「命」と「自衛隊の撤退」という交換条件も、ちょっと考えたら非現実的な設定だった。
 「犯人」がそのまま「殺害」を実行しても、「イラクの子どものために行動している民間人」を殺したとして世界中から批判されるだけで、ほとんど何の得にもならないのに、すでに「人質拘束の映像」が発信されてしまっていた。
 「犯人側」に最初に勘違いがあったのか。つまり、最初「人質」は日本人であれば誰でもよかった(目的が果たせる)はずだったのに、「人質」に捕ってみたら、この三人が「イラクの子どものために動いている」ことがわかってしまった、ということだったのか。だから、このまま「殺す」わけにはゆかない、でも「自衛隊の撤退」のカードして使わないわけにはゆかない。願わくば、日本のマスコミが、この「三日間」の猶予の間に事件を騒ぎ立ててくれて、「自衛隊の撤退」の機運を高めてくれれば、当初の「人質」をとった狙いは果たせたことになるし、さらにイラクの恩人になっている「人質」を殺すことをしなくてすむことになるし・・・そういうことだったのか。
 そして実際に「人質」は、なにやら「イラクからの贈り物」のようにして「解放」されることになった。「仲介役」という「イスラム協会」の立場もよくわらないし、そのスポークスマンらしき重要人物?が、「小泉の命は軽い」が「イラクのために働いてくれていた人質の命は重い」などと言っている映像も、不思議と言えば不思議だった。「むこう」は、いかにも人道的な配慮のもとに「解放」したかのように「説明」しているが、三人の目的は通訳を通して相手側に伝えられていたはずであり、「殺せない人質」であることは、「むこう」の関係者にはよくわかっていたはずだと思う。そういう人たちを、どうして「殺す」ことができただろうか。「人道的な配慮」を本当に考えるなら、早い時点で「釈放」できたはずなのに(他の国の人間ならその当時何人も無条件に釈放されていたはずではなかったか)、それができることがわかっていて、「むこう」は、「交渉のカード」に三人を使おうと考えたのである。それは「人道的」というより、やはり「政治的」な手段に使おうとはじめから考えていたのである。この事件は、さまざまに仕掛けを施された事件としてはじまっていたのである。




2 「マスコミ」の豹変  

 私がこの事件に「わかりにくさ」を感じるというのは、でも、そういう「イラクの実情」のことではない。新聞やテレビでしか「イラク」のことがわからない私にとって、本当の「イラクの実情」などがわかるわけがないのだから、そういう意味で「わからなさ」を感じるというのは、当然であるということになるかもしれない。しかし、私の感じた「わかりにくさ」というのは、そういう意味の「わかりにくさ」のことではない。
 私はできるだけ自分の身近な「日常性」を通して世界の出来事を考えたいと思ってきたので、どこから手に入れているのかわからない「ネタ」で、今回の事件のことを考えることはしないでおこうと思ってきた。

 「事件」がややこしくなってきたのは、「人質」が「解放」されてからのことだった。マスコミの豹変はすごかった。三人の日本人が「人質」にとられて、3日間の猶予の後に殺害されるという予告を報道した当時は、町ゆく人のインタビューでは、「かわいそう」「なんとかして助けてあげてほしい」という発言ばかりをピックアップして報道していたのに、「解放」が決まってからは、手のひらを返したように、町の人のインタビューでは「危ないところに行ったのは問題」とか「多くの人に心配をかけた困った人たち」というような「声」ばかりをピックアップしていた。
 政府の関係者からは、堰を切ったように「自己責任論」が出てくるし、それに合わせたかのように、今回の「人質解放」にかかった「費用」とやらを「何千万」とか試算する報道がでてきていた。そういう報道の変化が起こったのは、「純粋無垢なボランティア活動」と思われていた「人質」の家族が、実は「共産党員」であるとか、何かしら「日本人の左翼過激派」と関係があるのではというような「うわさ」が流され、急にマスコミの「熱」が醒めて、「冷ややかな反応」に転じていったからである。とくに、「家族」の人たちの「訴え」の発言は、「反政府」の文脈で読み取られ「問題視」されていって(つまりかつての左翼系の発言のようにみなされ)、一気に「人質批判」の方にマスコミが方向転換していった感じがあった。そんな「過激派」や「共産党」なら、かばう必要がないかのように。
 そしてそれに合わせたかのように、解放されたばかりの「人質」が、イラクの現地で飴をしゃぶっているような姿ばかりが放映され、日本ではこんなに心配しているのに、本人はのんきに飴をしゃぶっている、ということを印象づけるかのような映像を繰りかえし放映していた。
 そして羽田についた三人のあの「ぺこぺこと頭を下げ続けて歩いていた姿」のやるせなさ。おそらくああするしかしかたのないような状況があの当時の雰囲気にはあったに違いない。「報道リンチ」の雰囲気の中では、まずひたすら「謝る」姿を見せるしかあの時は許されなかったのかもしれない。




3   「視聴率」の材料に

 この一連の「出来事」で私は何を感じたのかというと、日本のマスコミが、自国の人質事件に、連日連夜膨大な時間をかけて報道し続けた「異様さ」についてである。それはいかにも、自国の人質の安否を気遣ってのことのように見えていた。しかし、見てきたようにそれは「かわいそうな人質」として見られていた時期までであって、あとは「勝手なことをした人質」として批判の対象にするために追いかけているだけだった。
 そこで私が感じたのは、今度の事件は、マスコミが視聴率を稼ぐために、あるいは視聴者を引っぱり続けるために、さまざまな「仕掛け」を重ねていった異様な事件だったという感想だった。
 マスコミがこの「三人の人質」の報道に費やした時間やエネルギーは膨大なものだったが、その膨大なエネルギーの十分の一でも、イラクの人々の実際の生活や子どもの様子を伝えるために使われていたら、もっとましな報道になっていたのではないかと思う。しかし、マスコミが追うのは、ひたすら「自国の人質の救出劇」ばかりであった。しかし、振り返ってみたら、もとは「普通のマスコミ報道」では見えてこないところにこの三人は働きかけていたわけで、それは美談になるようなものではなく、それまでで赤十字やNGOなどが地道にやっていたことでる。
 おそらく「マスコミの使命」は、アメリカ軍の駐留下におけるイラクの現状をもっと取材することが任務であったはずである。なのに、その使命を横へ置いておいて、視聴率のとりやすい「日本人の人質救出」ばかりの報道に終始していた。それで、「イラクのこと」がどこかに飛んでしまって、「三人の日本人の話」にどんどんと関心が移されていったのである。
 それは「人質」の「変なうわさ」を手に入れることで、「マスコミの餌食」に三人を仕立てあげるような「仕掛け」を作り、人々の三面記事的な関心で「事件」を見るように方向を変え、視聴率を稼ぐ方に軌道修正していったのである。
 このとき、マスコミは本来の自分たちの使命を脇へ置いて、「事件」を徹底して「三人の個人」の問題にすり替えていっていた。




4 「人質」とは何か

 新聞やテレビでしか「イラク」のことがわからない私にとって、この出来事を自分の身近な日常性から見るためには、何をどこから考えるといいのだろうか。
 私はまずこの事件が「人質・事件」としてはじまったところから考えなくてはならないと思う。そもそも「人質」とは何かという問いかけである。「人質」についてなら、私たちは中学か高校のころに『走れメロス』で読んだ人がいると思う。でもおそらく『走れメロス』の授業では「人質」とは何かというテーマで考えはしなかったかもしれない。「人質」にされたのは、友人のセリヌンティウスの方で、主人公のメロスを中心に授業を進めたら、テーマは友情や信頼の方になってしまっていただろうからである。
 「人質」というのは、人の命と交換条件で、さまざまな要求を突きつけるところに発生する。今回の「日本人人質事件」では、「三人の命」と交換に「自衛隊の撤退」を突きつけるものであった。この卑怯な要求をマスコミはほとんどきちんと批判・非難していなかったのではないかという気がしている。
 「犯人」側は、これが無謀な交換条件であることはわかった上で、こういう「事件」を引き起こしている。そこでは「人の命がなによりも尊い」ということがわかっているから、こうした「人の命」と「国家の政策」を天秤にかけようとするのである。こういう「仕掛け」は、卑怯であるし、許されるべきものではない。このことはきちんとマスコミは言わなくてはならない。
 ただ、最初に言ったように、「犯人」は、「人質」にならないものを「人質」にしてしまった可能性があるし、はじめから「人質」を殺す目的ではなく「国家の政策」を揺るがすための手段として使っていた可能性がある。関係者の多くはその「仕掛け」はよくわかっていたと思う。「犯人」は、その「人質」という「仕掛け」を使って、「マスコミで反政府・反戦のキャンペーン」をしてもらえれば、「元がとれる」と思っていたはずであるし、「人質」を殺せば、世界中に反イスラムの雰囲気が生まれるのこともわかっていたと思う。だから、「日本側」を思いっきり焦らせておいて、最後に、人道的な配慮で人質を解放するという、ほとんど「大衆芸能」のような通俗的な「演出」をして幕を引いたのである。
 結局、この過程で「三人の人質」は、まさに「国論をゆらす」ためだけの交換条件に使われた。私は、今回の事件が、この「人質」と「国論」の交換であることに、もっと注意を払うべきだと思う。つまり、「国論」を「ゆらす」ために「人質」が「身代わり」にされていたのである。




5 「記者会見」というマスコミの常套手段

 政府はもちろん「人質」が「国論(世論)」との交換条件にされていることはわかっていた。だから、ひとまず人質の救出まではじっと待って、その間にマスコミで盛り上げられた「自衛隊派遣反対の世論」に対してすばやく反撃を加えていったのであろう。それが自己責任論を核とする「人質批判」であった。そしてマスコミも政府の動きに連動するように「人質批判」に転じていった。マスコミの方はもちろん視聴率を狙っていた。
 私は今回の一連の出来事で、常に「ずるい立場」をとったのは、「マスコミ」であったと思っている。最初の「人質事件」が発覚してから、連日のように「家族の記者会見」を設定し、「家族に心中を喋らせる」ことにやっきとなっていた。家族は、不安が先に立っているものだから、たぶん仲間内で喋っているような感じで、ふだん思っていることを喋ることになってしまっていたと思う。だが、それが「記者会見」という形で流され、最初は「同情」を買うようなスタンスで扱われるのだが、政情が変わると、手のひらをかわしたように、「揚げ足を取る」ような形で「記者会見の発言」が「マスコミ」の目のつけられるところとなってゆく。とくに家族の発言が、「反政府・反自衛隊」の「政治的な発言」とマスコミからみなされるようになると、「人質」のイメージは大きく変化させられてゆくことになった。
 そういう「世論の操作」をするのは「マスコミ」であり、それはあの「記者会見」という場の設定からはじまるのである。いつから、あんな「記者会見」というような場が、当たり前のように設定されるようになったのだろうか。「記者会見の場」には、魔物がいる。記者達はそのことはよく知っている。会見者の「良いイメージ」も「悪いイメージ」も、マスコミはここから自在に取り出せることを、記者達は知っている。知らないのは、はじめて「記者会見」ののぞむものだけである。そこが危険な場であることの心構えが何もない。
 私が何を言いたいのかというと、個人は「個人的に喋る場合」と「公の立場で喋る場合」があるということについてである。Aさんは、町内会のおじさんとして喋る場合と、会社の課長として喋る場合は違っているし、違っていて当たり前である。そこは誰でも気を遣って区別している。
 しかし、今回の「記者会見」に出された家族は、警戒心もないままに、臆面もなく「私人」の心中を述べていたのである。しかし「事件」全体の「仕掛け」は、「人質」対「国家の政策」という巨大な構図で動いていたのであり、勢い家族の発言は、「国家への発言」と見なされる側面をもっていたのである。ささいな言動でも「国策にたてつく発言」と見なされる余地はいくらでもあった。
 これが、街角のインタビューくらいなら、いくら「国の政策への批判」をしても、それは単なる「私人」の意見と見なされるだけなのに、「記者会見」の場で喋ったことは、公共の機関を使って、特定の政治声明を訴えているように見なされることがあるし、そういうふうにあえて見させることをマスコミはする。つまり街角のインタビューでは、ごく普通に「自衛隊にイラクへ行って欲しくなかった」と言える「感想」が、「記者会見」で言えば、「反戦運動」や「政治的な左翼発言」になってゆくのである。
 結局、家族はのちになんどもなんどもテレビの前であやまり、「そういうつもりはなかった」という「釈明」をくり返していた。「そういうつもり」とは、人質救出に全力をつくしてくれている「政府」の批判をするつもりはなかったのだということについて。




6 「人質」とは誰だったのか ー『走れメロス』との接点ー     

 そういう経過を見てくると、今回の「事件」での「人質」とは誰だったのかということが気になってくる。
 英字新聞では「人質」を「Hostage」と表現していた。「Three Japanese hostages freed」というような見出しで。もちろん、間違っているわけではないが、しかし、本当にそういう表現で言い表せるような事件だったのかと、私は思う。「人質」というのは、『広辞苑五版』岩波書店ではこう説明されていた。

 ひと‐じち【人質】
 ・人身を目的物とする担保。約束履行の保証として相手方に引き渡された人。大名の妻子を人質にとる、あるいは質奉公をする類。西洋でも同様の習慣は古くから行われ、18世紀頃までは国際的にも条約実施の保障とされた。
 ・身代金をとるなどのために不法に監禁された人。

 ここで太宰治の『走れメロス』に戻るのだが、この作品の元になったのが詩人シラーの「担保」という題の長い詩だった。その詩は、太宰治の『走れメロス』とほとんど一緒の展開を見せている(「『走れメロス』財源考」角田旅人1984、参照)。この、もともとは「担保」という詩だったものが、翻訳の過程で「人質」にされていった。もちろん誤訳ではない。『広辞苑』でも、「人質」は「人身を目的物とする担保」と最初に書かれていたのだから。
 「担保」とは「保証」のことであり、「身代わり」となるもののことである。でも、ここで「人質」とイメージするのか、「担保」「保証」「身代わり」としてイメージするのかでは、ずいぶん事態の把握の仕方が違ってくると私は思う。
 こういうことをいうのも、今回の一連の出来事を見ながら、私は本当にさまざまなものが「身代わり」にされ、「担保」にされた出来事だったんだなと思うところがあるからだ。そもそも事件のはじまりは、イラクの武装勢力の「身代わり」に「日本人三人」がされたところからはじまっている。その三人の命を「担保」に、日本の国策をゆらす作戦が作られた。そして日本の国内でも「人質の救出」を「担保」に、反政府のキャンペーンを目論んだ政治組織もあった。そして途上で、何度も何度も「記者会見」させられた「家族」は、まさに「イラクにいる人質」の「身代わり」にされるということが起こっていた。ある意味では、家族もマスコミによって「人質」にされていたのである。そして「事件」が終わった後では、「イラクにかかわる民間人」への見せしめのようなイメージを作るための「身代わり」に「三人」がさせられていった。こうして 「人質」と名付けてしまえばうまく見えないものが、「身代わり」「担保」と呼べば見えてくるものがたくさんある。
 とくに私は、マスコミがこういう「人質」を「人質」にして、自分たちがいうべきことを「身代わり」に言わせている構図の見える「仕掛け」がたまらなく嫌だった。つまり、「人質」のやったことの中で、「イラクの民間支援」の部分はちゃっかりと肯定的に使い、反政府的に見えてくる部分はぼこぼこと叩き、そういう「操作」そのもので世論を動かすということをやってのけている部分である。それで、マスコミの側の人間は誰も傷つかない。同情されたり、賞賛されたり、非難されたりということで、もち上げられたり、貶められたりして傷つくのは、いつも普通の個人や家族の方なのである。
 そういう経過の中でも追い打ちをかけるようにして嫌だったのは、ひとしきり政府の自己責任論が出た後で、マスコミは、それではあまりにも「人質」に可哀想だと思ったのか、アメリカやフランスの新聞記事を取り上げ、「日本の自己責任論のおかしさ」を指摘している記事を紹介しはじめたことだった。それでバランスを取ろうとしていたのだろうか。私には、本当に「ずるいやり方」だと思われた。自分たちの内部から、自分たちがいかにつごうよく世論を操作しているかの報道姿勢の自己批判をするのではなく、外国の新聞記事を借りて、自分たちの国の報道ぶりのおかしさを指摘するのである。
 こんなふうに、「人質」をつごうよく持ち上げたり、つごうよくけなしたりして手玉に取るマスコミは、まさに今回「人質」をつごうよく「担保」にした「イラクの武装勢力」と同じ事をしているのではないかと、私には感じられていた。「人質とは誰だったのか」、このことはもっと「問題」にされてもいいのではないだろうか。