じゃのめ見聞録  No,43

動物への「暴力」について
ー鳥インフルエンザの出来事を見ながらー

2004.4.10 



 鳥インフルエンザにまつわる出来事が1月から3月まで続いた。養鶏場の問題、経営者の自殺、渡り鳥の問題、経営のモラルの問題、消費者の不安・・・。テレビのニュースを見ながら、この一連の出来事にまつわるいろんなことを考えさせられた数ヶ月だった。そんな中で、ニュースとしては、ほとんど「話題」にはならなかったが、小さく報じられた事が気になっていた。それは小学校で飼っていた鶏を、学校が勝手に「処分」したり、業者に預かってもらって飼育小屋を空にしたという報道のことだった。
 学校は、それまで動物を飼うことで、「動物のいのちの大切さ」などを教えてきていたと思う。夏休みに読む課題図書の中には、必ず生き物との触れあいを描いた作品が入っていた。そんな学校が、どうして生徒に「説明」しないでかってに飼育している鶏を「処分」したりしたんだろうと、ふと思った。もちろん学校を責めてのことではない。自分もそうしたかも知れない可能性のことをちらっと感じたからだ。
 おそらく学校は、ウイルス感染の不安に対して過度の危機感をつのらせていたと思う。生徒に危害が及ぶ前に予防的な策をすみやかにとるのが、今の学校の危機管理に求められている課題である、と感じたのだと思う。だから、生徒への対応を待たずに、緊急事態というか、学校安全を守る危機管理の意識の元に、あわてて鶏を「処分」したのだろうと思う。緊急事態の中で「学校管理者」として自分もそういうことをしたかもしれないと思いながら、何かしら言葉に出来ない「難しいもの」を私は今回の出来事の中に感じていた。
 そんな中である新聞記事の見出しが目に止まった。「動物愛護団体の沈黙はなぜ?」と題された記事だった。出たな!とその時思った。やっぱり出たか、という感じだった。書き手は曾野綾子さんだった。曾野さんは、その記事をこういうふうに書き出していた。

 「烏インフルエンザのウイルスが検出されて「処理」される鶏の数を聞き、その光景を見ると、私はやはり平静ではいられない。もともと優しくない性格だから、すぐに忘れていられるけれど、鶏の世界ではアウシュビッツの虐殺に当たる悲痛な事件だろうと思われる。何しろ人間を救うために、十万単位で命が処理される日もあるのだから。」(平成16年3月5日産経新聞)

 何十万羽の鶏が「処分」されたというニュースをさんざん聞かされてきた私たちにとって、「処分」が「殺す」ことの別名であることはもちろんわかっていた。感染しているわけでもない鶏まで含めて、一気に「処分」していることもわかっていた。いずれ感染するのだから、早いうちに「手を打つ」という理屈もわからないわけではなかった。そんな中で、この曾野綾子さんの記事が出たわけだ。出たか、と思ったのは、こういう記事を誰かが書くんじゃないかと感じていたからだ。案の定、記事はそういうふうに書き出されていた。しかし、想像はしていたが、読みながら改めて、ひどい、乱暴な記事だと思った。
 鶏の「処分」が「鶏の世界ではアウシュビッツの虐殺に当たる悲痛な事件だろう」というのは、許される推論なのだろうかと思ったし、「人間を救うために、十万単位で命が処理される日もある」という指摘は、何を抗議しているのかと思ったからだ。曾野さんは、この記事の最後をこんなふうな書き方で終えていた。

 「今回、鶏をどうして「処理」するのか恐る恐る聞いたら炭酸ガスを袋に入れて眠らせて絶命させるという。それで私はいくらかほっとした。苦しくないなら何とか許せる。しかしこういう時期になると、動物愛護の人たちは完全に沈黙している。どうしてなのだろう。こんな「大量虐殺」は彼らの心情に反さないのだろうか。」

 ばかばかしい、愚かな抗議だと私は思った。どうして、今回の出来事が「大量虐殺」のようなことに比較されるのか。あまりにも極端で、幼稚な比較ではないか、と思った。「大量虐殺」とは、そういうことと比較されてもいいものなのか。おそらく、このウイルス事件がなくても、あの養鶏場の何十万羽の鶏は数ヶ月先には、食べられてみなさんのお腹に入っていたはずなのである。ひょっとしたら、曾野さんのお腹にもである。だが、こういう事件が起こってから、「炭酸ガスを袋に入れて眠らせて絶命させる」なら「ほっとした」とか「苦しくないなら何とか許せる」などというのは、本当におろかな「納得」ではないかと思う。なぜなら、今でも毎日日本中で何百万羽の鶏が「大量虐殺」されているはずなのである。いままでそんな事実にはなんの声も上げないで、こんな出来事になって急に「大量虐殺」だなどというのは、ホントに頭がどうかしているんじゃないかと思うくらいだ。
 私は曾野さんの記事の揚げ足をとるために、こういうことを書いているのではない。曾野さんのような発想をとれば、きっとこういう疑問もついでに出てくることを感じていたからだ。それは「動物愛護の人たちはなぜ沈黙しているのか」という問いかけのことである。ここで言う「動物愛護の人たち」というのを、私は広義の意味で、学校関係者や児童文学に関係する人たちを含めて受け止めている。この人たち(もちろん私も含む)は、今回のこの出来事を見ながら、自分たちの社会の矛盾をさまざまに感じていたと思う。
 普段、学校などで、確かに「鶏」の飼育をしていて、「動物のいのち」の大切さを生徒に学ばせていると思う。しかしウイルスの感染の危険性があれば(感染区域の中にある学校という意味だが)、感染して生徒に危害を及ぼす動物をきっと学校は「処分」すると私は思う。「勝手な処分」はきっとあとで「問題」になるとわかっていても、そうすると私は思う。もちろん「生徒」に「事情」を説明する学校もあると思うが、そこで生徒たちが「可哀想だから殺さないで」と訴えても、学校は「処分」に踏み切るだろうと思う。私は、誰もが納得できるすぐれた「説明」があり得るとは思えないからだ。というのも、「飼育小屋の二匹の鶏」をいくら「がんばって守る」ことを生徒に約束できても、その日の給食に出される鶏の唐揚げの「いのち」までを「守る」ことは学校にはできないからだ。
 そういう矛盾を感じるから、「動物愛護の人たちは沈黙していた」のではないかと思う。そこで発言をすればきっと曾野さんのような愚かなことを言ってしまうのではないかと、感じていたからであろう。
 こういうことを感じていた折りに私は偶然に、2003年度ノーベル文学賞受賞者J・M・クッツェー『動物のいのち』大月書店を読んだ。強烈な本だった。架空の女性作家が動物愛護の視点から講演したことに、みんながいろんなことを言い合うという変わった設定の講演の記録である。いかにも曾野綾子さんのような女流作家が、曾野さんよりかもっと強烈で正当な「動物擁護」の演説をする。ナチスとの比較、大量虐殺との比較も出てくる。鳥インフルエンザのことで、いろいろ考えていた時期に、こういう痛烈な本の読めたことで、私は少し救われた気がしている。
(『日本児童文学7-8』小峰書店 2004)