じゃのめ見聞録  No, 42

  「ダイアド」という視線があるんなら
−上野千鶴子「家族の世紀」批判−


2004.3.20 


 上野千鶴子「「家族」の世紀」(『差異の政治学』岩波書店2002.3)は、コンパクトにまとめられた、近代家族批判である。説明の流れについては、私もそうだなと思えるところがある。そういう批判があって当然だろうなとも思える。彼女の批判の要点を見てみたい。最初に彼女はこういうふうに切り出している。

 家族は永遠だろうか?
 人類学は「家族」と呼ばれるもののあまりの多様性に、とっくに定義を放棄してしまったが、社会学は家族の普遍性をめぐって、それにミニマムの定義を与えようとしてきた。第一は家族の構造について、第二は家族の機能についてである。

 「家族は永遠だろうか?」という問いは、変な問いである。地球でさえ「永遠」に続かないのに「嫌み」な問いだなと思う。まともに考えたら、最初のこの問いかけに対して「家族は永遠ではない」といって話が終わってしまう。むろん、書き手は一行目が嫌みであることはよくわかっているので、続けて「家族の普遍性」という言葉に切り替えている。書き手はこの「家族の普遍性」について検証してみたいのである。
 「家族」と呼ばれてきたもの、なにか大昔から存在し、あたかも「永遠」に続くかのように思われてしまっているもの、実はそんなふうにイメージされてきている「家族」というようなもの、たかだか近代に生まれた、うんと新しい概念で、それも、生み出されたとたんに破綻をきたしてきているような概念であることを、書き手はなんとか指摘したいと考えている。先に言っておくが、私は書き手のこういう見解にそんなに違和感を感じているわけではない。それはそうだなと思うところもたくさんあるからだ。そのことは最初に言っておきたい。
 私が書き手に違和感を感じるのは、そういう社会学的にまな板に乗せられる「家族」のことではなく、もっと違うところにある。でも、そのことを言うためには、書き手の社会学的な「家族」分析をちゃんとたどっておかなくては、と思う。書き手は、続けてこういうふうに書いている。

 第一の構造については、母子ダイアドと性ダイアドの結合による、「核家族」という最小単位を設定した。べつなことばで言えば、婚姻と血縁でつながる性と世代の異なる集団メンバーが家族の最小単位には不可欠だとされてきた。家族社会学の伝統のなかでは、家族は婚姻によって成立し、その解消によって解体することになっている。いったん、最小ユニットが設定されれば、あとの類型は複数の性ダイアドと母子ダイアドの組み合わせで説明できる。こうして拡大家族、父系直系家族、合同家族などの類型がつくられた。
 他方、家族の機能については、この最小単位、核家族にふさわしい最小限の機能が定義された。有名なパーソンズの定義によれば、核家族が果たす最小の機能は「子どもの社会化機能」と「成人の情緒安定機能」とである。前者は母子ダイアドに、後者は性ダイアドに対応する。p127

 一般の人には聞き慣れないカタカナの言葉が出てくる。が、意味については、彼女が末尾に次のように注釈をつけている。

 (1)「ダイアドdyad」は社会学の専門用語で「二者関係」のこと。どんな複雑な関係も二者関係の複合から成り立っている。

 だったら「母子の二者関係」「性的な二者関係」といえばいいのにと素人は思うだろうが、学者はそういうわけにはゆかない。でも、彼女がこの言葉を使っているからこそ、私はわざわざこの論文を取り上げているのであって、この言葉を使っていなければ、私はこの論文を取り上げていないと思う。そのことについても、私はのちに触れたいと思う。
 書き手は、ここで何を語っているのかというと、従来の社会学では、およそこんな風に「家族」が定義されてきたんですよ、というサンプルを示すことである。むずかしいことを書き手は言っているわけではない。従来の社会学で「家族」と呼ばれてきたものは、「構造」面から見たら、「母子ダイアド」「性ダイアド」の結合による「最小単位」があり、それが「婚姻と血縁」でつながる最小単位「核家族」と見なされていって、その「最小単位」の組み合わせ方で、さまざまな「家族形態」があることが研究に対象にされていた、と書き手はまとめをしているのである。
 わかりにくいまとめではない。要するに「母子の二者関係」「性的な二者関係」を営むものたちが、「婚姻と血縁」でつながる最小単位を作りだし、それが「核家族」として意識され、その「婚姻と血縁」の組み合わせがのちに多様な「家族形態」を見せつけることになった、と従来の社会学は考えたと書き手はまとめているのである。私もこういうまとめに異論はない。
 書き手は、そこから特有のねばり強さで、こういう社会学の流れが作ってきたもののおかしさを指摘しようとする。一つは、「家族」というものを問題にするのに、こういう「定義」で示されているような「最小単位」を「核家族」と見なすようなことを、自明なこととして前提にしてしまっていていいのか、という指摘である。
 事実「核家族」などという用語は、「いまでは日常用語のひとつとして定着しているが、もとは人類学者、G・P・マードックによって造られた専門用語」p130だったのではないか。それが、「家族」を論じる中心の概念にすえられ、研究者たちは、そういう「最小単位=核家族」を、あたかも実在し操作できるものとして取り扱ってきているけれど、本当にそうなのだろうか、という疑問を書き手は出している。
 
 人類学の親族理論では「家族」という概念は比較的あたらしいものである。「親族」のなかから、「家族」を析出することはむずかしく、かつ「家族」と「親族」の境界はつねに揺れ動いているからである。私たちが家族のプロトタイプとみなす居住の共同(世帯)と血縁の共同(狭義の家族)が一致する「近代家族」しかも「単婚小家族」は、人類学の親族理論のなかでは限られた特殊ケースにすぎない。p130

 プロトタイプとは原型とか標準という意味である。ここで、こういうカタカナを使うところがなんとも社会学者らしいが、ともあれ、私たちが、そういう原型的な「家族」とイメージしているもの、あるいはその発展した多様な「家族形態」と呼んでいるもの、それは本当に「家族」などという呼び名でくくれるものだったのかと書き手は問うている。逆に、「核家族」というような「概念」を社会学が作ってきたがために、存在もしない「家族」や「多様な家族形態」が存在させられるはめになってきていたのではないか、と。

 マードック流の普遍主義が「核家族」を操作概念として一般化するにいたった。マードックによれば「核家族」は、採集狩猟民の社会でも産業化された社会でも一般的であるばかりか、複合家族や直系家族が規範とされる社会でさえ、統計的には広く見いだされることがわかっている。だが、「核家族」という概念のもつ効果は、べつのところにあった。親族と家族、家族と世帯の区別さえ不分明な対象領域へ、マードックは「家族」という単位を、あたかもそれが観察可能な実体であるかのように、持ちこんだのである。そのマードックの予期のなかに、わたしたちは西欧=近代家族の与件としての強さを見ることができる。p131





 書き手が執拗が問題にするのは、「母子ダイアド」「性ダイアド」の結合と彼女が呼ぶ次元と、それが「家族」と呼ばれる形態になる次元には、ずいぶんな開きというか、差異がある、ということについてである。書き手は、「母子ダイアド(二者関係)」や「性ダイアド(二者関係)」の存在は認めている。その関係が最小単位としての「核家族」を作りだし、それが「婚姻と血縁」として意識され、「家族」ひいては「近代家族」を作ってきたなどという理屈は本当にそうなのかと、問うているのである。そしてこう書いている。

 母子ダイアドは生物学的結合にもとづいていると考えられているが、この母子ダイアドと性ダイアドとのあいだには、必然的な関係がなくてもかまわない。つまり、母の正統なーすなわち社会的に承認されたー性的パートナーが「父」と呼ばれる。人類学は当初から「生物学的父」と「社会学的父」を区別してきた。この「社会学的父」は、母の性的パートーでなくてもかまわない。母系社会では「母の兄弟」が「社会学的父」の役割を演じる。言い換えれば、親族構造のルールとは、生まれた子どもがだれに帰属するかについての規則にほかならず、だれがほんとうの生物学的父親かという問いを不問にしてきたのである。母の性的パートナーが子の生物学的父である、あるいはそうでなければならない、という「核家族」の理念は、人類学的には家族の特殊ケースにすぎない。p128

 書き手は、「母子ダイアド(二者関係)」や「性ダイアド(二者関係)」の存在は認めているが、母子ダイアド(二者関係)」が、家族の条件ではないことを、これでもかと指摘する。そしてさらに「性ダイアド(二者関係)」だって家族の条件ではないことを、次のように指摘する。

 「近代家族」は、「婚姻結合による成立」を前提としており、家族社会学もその概念を踏襲しているが、人類学的にいえば、婚姻すなわち性ダイアドは家族の必要条件ではない。婚姻を欠いても母子ダイアドは成立するし、多くの母系社会では母の性的パートナーは「家族」の成員とみたされていない。性ダイアドそのものは婚姻の中にも外にも存在しうるし、かつ単数でも複数でもありうる。婚姻をもって「家族の成立」とみなす家族社会学の定義は、それ自体、近代的な家族観・婚姻観にふかく規定されている。p131

 こういう書き手のまとめ方によれば、家族の中核にあるとされてきた「母子ダイアド(二者関係)」や「性ダイアド(二者関係)」は、なにも今日私たちの慣れ親しんでいる「家族」のイメージに関係していないことが見えてくる。それは中核のイメージでも何でもないようなのだ。さらに、機能面から見られた「核家族」の果たす役割として「子どもの社会化機能」と「成人の情緒安定機能」とが上げられていたが、そのことについても、書き手は批判を展開する。

 「子どもの社会化機能」はいまや「三歳まで」の第一次社会化に局限されているし、その社会化の担い手が母のみに限定されているのも、近代に特殊な事態といわなければならない。「成人の情緒安定機能」のなかには暗黙裡に「性的満足」が含まれている。だが制度的な結婚のなかでパートナー同士の情緒的満足が求められるようになったのはここ最近のことにすぎないし、「性的満足」が婚姻の必要条件になったーしたがって「性(格)の不一致」や「性的義務の不履行」が離婚理由となりうるーのも近代以降のことにすぎない。p128

 こうなると、「構造」面からみても、「機能」面からみても、社会学が定義しょうとしてきた「家族」というものは、「定義」されている用件を全然満たしていないものに見えてくる。こんなふうに「家族」の「定義」とされたもののとおりになっていないものを、いったい「家族」として見ていっていいのだろうか、ということになってくる。でも、多くの人は、そういう理論的にも存在しにくい「家族」の存在を認め合ってきている。その結果、もっと大変なことが起こってきている、と書き手は考える。特に、存在しないはずの「家族」を存在させようとして、「愛」というような原理を持ち出して、無理につなぎ止めようとしてきたところがある、と。その結果、そういう美しい言葉の裏で、そうとうな無理や無茶がその「家族」と呼ばれるものの中で、行われてきていたのではないかという疑問である。

 へーゲルは家族を人倫の基礎とし、フロイトのエディプス・コンプレックス説は家族を人格と倫理の根拠に据える。さらに家族を「愛の共同体」とみる見方が、家族をそれ以上たちいって分割することが不可能な融合した実体として捉えさせ、個人を分析単位として析出することや、そのあいだの非対称性や権力関係を対象化しにくくさせてきた。p142

 倫理や道徳や人格のはぐくまれる場としての「家族」、しかし、実際にはそういう美名の元に父親が権力を振り回すだけの「家庭」であったり、母親がヒステリックに子どもを虐待する「家族」であったりもしてきた。いったん成立した「家族」は、常に見えない拘束力となって家族の構成員を、さまざまな形で縛ってきていたのではなかったか。書き手が嫌っているような「家族」の情景が目に見えるようである。そこから書き手は、こうした「家族」の現実を明らかにしてきたのはフェミニズムなのだと主張する。

 こうして「家族」は「現実」であるよりもより多く「規範」となる。その「規範」モデルは家族の「現実」を隠蔽する効果をもつ。この効果は、家族の抑圧性や権力関係を問題化しようとすれば、語り手が「家族」の価値へのコミットメントを信仰表明したうえでおこなわなければならない、という強制力にまでおよぶ。「近代家族」の内部の家父長制的抑圧を問題化するだけで、フェミニストは「家族破壊者」の汚名を与えられたが、事実は逆である。フェミニストの家族研究は「家族」が「暴力の砦」となりうること、家庭内暴力は「近代家族」の自律性(別なことばでは、閉鎖性とも孤立性とも呼ばれる)の当の産物であることを示唆してきたのである。 p144

 フェミニズムは、「家族破棄者」の汚名を着せられてきた、という下りを読む人の中には、実際そうじゃなかったの? と思う人もいるだろうが、本人はそうではない、家父長制度に乗っ取られてきた家族を撃ってきただけだと言っている。確かに、見てみたように、「家族」は「歴史」の中で作られてきた。とくに「近代家族」の成立してきた歴史は浅い。そして、浅いだけではなく、無理を抱えていたので、はじまったとたんに解体の契機を抱えていた、ともいえる。現在「家族」の解体が叫ばれているのは、誰かが(たとえばフェミニズムなどが)そういうふうに仕掛けてきたからではなく、もともと解体する仕組みをもっていたからそうなっただけなのだ、と書き手は言う。そして、「「家族」は決して社会の最小単位でもなければ、社会構造は、「家族」を中心として「同心円構造」で成り立っているもいない」ということを最後に改めて主張した後で、こう締め括っていた。

 人は「家族」をはなれても生きていける。「家族なしでは生きられない」という強迫は、「近代家族」がこれほどの閉鎖性と排他性を獲得したあとに初めて事実となった。私たちは事後的な効果を原因と取り違えているが、これこそ、「家族」の言説のイデオロギー効果と言うべきであろう。
 そう考えれば、「家族」が人々の行動と思考をこれほどまでに呪縛した時代として、私たちは近代を相対化することができる。「家族」の世紀ーあとになって人々は二〇世紀をそう呼ぶことになるかもしれない。p146



■ 森崎和江さんとの対談

 振り返ってみて、上野千鶴子に、これほどまでに「ダイアド(二者間系)」を取り上げる視線があるのなら、なぜもう少し踏み込んで「カップリング」のような相に注意を払うことができなかったのか、不思議に思う。さらに、振り返ってみて、私には、この書き手がどうしてこれほど家族を毛嫌いしているのか、その根っこがどうしても分からないが(あまり分かりたいとも思わないが)、ひとつだけわかることは、書き手には、「家族」というものが、「男が得するように作られた巧妙な小ユニット」のように見えてしかたがないところがあったということだ。
 そんな上野が森崎和江と対談したことがあった。この対談を読んだとき、なんて気持ちの悪い対談なんだろうと思ったものだ。話がほとんどかみ合っていなかったからだ。かみ合っていないにもかかわらず、上野の方が、しきりに森崎さんにエールを送り、自分がいかにも森崎さんに共感してきたか(評伝を書きたいとまで言っている)をアピールしているのである。
 いったい上野千鶴子と森崎さんのどこに接点があるというのだろうか。二人の間には、水と火ほどの違いがあったのに。事実、森崎さんは、どんなに連れ合いとの暮らしがうまくいかなくても、家族や、子育てや、男女のエロスを求め続けていたのに、上野の方は、それらを否定する言動を売り物にして生計を立てることを続けてきたからである。上野が森崎さんを理解しているように感じているのは錯覚である。森崎さんは、見てきたように、人間存在の仕方を常に「カップリング」のような相に見い出してきていたのに、上野千鶴子は、人間存在に、常に「シングル」の相しか見ようとはしてこなかったからである。対談でその食い違いが出ている場面(それはいたるところに見られるのだが)、少しだけ切り抜いておきたい。(対談は、1990年12月10日になされている)。

森崎:  私は『第三の性』の頃は、自我の崩壊までしか書けませんでした。このごろは、自我の崩壊でも近代化のおとし穴でもなんでもいいけど、日本には、他者の発生、それを認識する意識というものが育ってないなあと思う。男性だけじゃなくて、女性のほうにも。私自身も崩壊としてしか分かんなくて、人間の内部にある他者の存在を見る力がなかったんだと思います。最近は三十代の男性が、自己の内の他者という話をするの。家族の存在基盤として。だから先ほどの女性学者(森崎さんの批判をした社会学者のことだが、上野はこの社会学者を引き合いに出すことで、この後も間接的に森崎批判を企てようとしているー村瀬注)のおっしゃるのは、庶民というのはとうの昔にそういうのは知ってたよということかもしれないのね。くだけて言うと。

上野:  えーとね、それだけでもないと思う。もうちょっと屈折があってね、子どもなんて最初から異物だよっていう感覚なんですね。

森崎:  そりゃそうです。

上野:  他者は他者だよ、他者が自己の一部だなんてことは一度もないよと。彼女(さっきの森崎さんの批判をした社会学者のことー村瀬注)のリサーチによると、たとえば今の流行は、胎児に名前を付けて呼びかける。これはもう出産前から自他分離してるんですね。もともと異物であるものを、他者だってわざわざ言うまでもない。

森崎:  そうなのよね。だけど「わたし」という言葉しかないの。その中に他者が在るのに、ゼロ感覚の、私という言葉しかないことがいやなのね。私の前の世代は、胎児を霊として異物視したけど。

上野:  その森崎さんの問題が彼女に共有されているとは思えないな。森崎さんのおっしゃるのは、他者との共生ということを記述する言葉がないということでしょう。ところが、彼女および彼女の世代の妊婦たちには、共生感覚さえもうなくなってるわけですよ。胎児は異物なんです。すでにもうプッツンした存在ですよね。

森崎:  そうかもしれませんね。プッツンでも、言葉がない。
『性愛論』河出書房新社1991


 なんて馬鹿馬鹿しい、不毛な対談なんだろうと思う。森崎さんは、とりあえずは「そりゃそうです」とか「そうなのよね」とか「そうかもしれませんね」と合いの手はいれているけれど、本当は「あんた、何を馬鹿なことを言ってるの!」とはっきりと言ってやりたかったのではないかと思う。森崎さんは「男性だけじゃなくて、女性のほうにも、人間の内部にある他者の存在を見る力がなくなってきている」と言い、「「わたし」という言葉の中に他者が在るのに、ゼロ感覚の、私という言葉しかないことがいやなのね」とはっきりと言っているのに、上野は馬鹿な社会学者の「研究」を引用するふりをして「他者は他者だよ、他者が自己の一部だなんてことは一度もないよ」とか「胎児は異物」、「彼女の世代の妊婦たちには、共生感覚さえもうなくなってる 」などという自分の考えを厚顔で森崎さんにぶつけているのである。「他者が自己の一部だなんてことは一度もない」という考えが、上野の本音である。こんな考えの持ち主と、いくら「カップリング」につながる話をしょうと思っても無駄であるが、しかし、こういう考えに立って、「家族」を高飛車に論じ否定してきた日本のフェミニズムの歴史は、なんと貧しい歴史であろうか。