じゃのめ見聞録  No, 41

 新しいジャングルの方へ


2004.2.20



1 最初の疑問

ーなぜ子どもを動物園に連れて行ってあげるのだろうー

 かつて子どもとよく一緒に読んでいた絵本に、なかのひろたかの『ぞうくんのさんぽ』福音館書店がある。不思議な絵本だった。ぞうさんが、散歩の途中に出会った動物を順番に背中に乗せて歩いてゆく。最初はかばくん、その次はわにくん、最後はかめさん、そして、しばらくして、水たまりにこけてしまうという、ただそれだけのストーリーである。とりたてて変わったことが起こるわけではない。私は、この絵本をなんべん子どもに読んであげていたことだろう。絵がユニークというか、わかりやすいということもあったし、最後の水たまりで転倒するときの水しぶきが、まるで浮世絵の北斎の浪しぶきを見るようで面白かったということもある。けれども、「不思議」というのは、どうも絵本のそういうストーリーや絵柄だけではなかったような気がする。
 私が、この絵本を子どもに読んであげようと思ったのは、もちろん偶然である。ただ、しいていえば、動物の書いてある絵本を無意識に探していたような気がしている。子どもに動物を見せてあげようと思っていたようだ。それで、たまたまこの本が本屋さんに置いてあったということだ。
 不思議なのは、なぜ「動物の書いてある絵本」を探していたのかということだ。もちろん、当時、いろんな絵本を買って読んであげていた。『ぞうくんのさんぽ』もその中の一つで、この本に特別の比重がかかっていたわけではない。ただ、覚えているのは、いろんな面白い絵本がある中で、どこかで無意識に「動物の出てくる絵本」を買ってあげようと思っていたということだ。それはどういうことかというと、子どもを「動物園」に連れて行ってあげたいと思う動機と同じ動機が働いていたようなのだ。私も、当然の事ながら、京都市内にある岡崎動物園に子どもたちを連れて行っていた。板をくりぬいたはめ絵も、ほとんどが動物の絵であったから、それももちろん買って上げたよ。
 「不思議」なのは、なぜ、大人はそんなことを考えるんだろうということだ。そんなこととは、子どもができると「動物園」につれてゆこうとする、ということである。理由は、子どもが喜ぶからだし、子どもの喜ぶ顔が見たいからだろう。私はそうであった。
 この場合、絵本で動物を見せたから、次ぎに実際の動物園を見せて上げようと思ったのか、動物を見たから、絵本でも見せて上げようと思ったのか気になるところだが、たぶんその両方の要因が相互作用しているのだろう。
 考えてみると、この「子どもを動物園につれてゆく」という動機も不思議なのだが、さらに『ぞうさんのさんぽ』という絵本はもっと不思議だった。それは、いたからである。彼らが「散歩」の途中に出会うというのも不思議だが、彼らがそれぞれの背中に乗って、仲良く散歩するなんていうのは、考えてみたらとんでもない話である。よくもまあ、こんな、とんでもない絵本を、子どもに見せていたものである。
 けれども、そんなふうにいうと、お前は馬鹿じゃないのと言われそうである。何を目くじらを立ててるの、それは絵本じゃないの・・と。まだ、世の中のことがわからん、小さな子に見せるんだから、それでいいんだ、と。
 私は今、変なことにこだわっているとお思いだろうか。
 私が『ぞうくんのさんぽ』を子どもに見せようと思ったのは、きっとそこに「紙上の動物園」があるからと考えていたからに違いない。確かに、この「紙上の動物園」には、動物はいるには居たのだが、しかしながら、実際の動物園では、ぞうの上にかばが乗り、かばの上に、わにが乗り、その上にかめが乗る、というような光景は見たことがないし、また見えるわけのものでもなかった。これは、おかしい!のか。
 ということになると、私はおかしなことをしていたことになる。つまり、私は子どもが産まれたときに、子どもに「動物」を見せてやろうとして「動物を描いた絵本」を買って上げた。そして、そういう「絵」が実際に動いているような場所、つまり「動物園」に連れて行ってあげようとした。しかし、「絵本」で見せた「動物」はあり得ないような「動物」を描いていた、つまり「間違った動物」を子どもに見せていたということになる。
 実際の「動物園」には、そんな動物はいないのだ。つまり、ぞうの上に乗っているようなかばはいないし、かばの上に乗っているようなわにもいない。そもそも「動物園」では、ぞうとかばとわにが散歩しているということはないのだ。「絵本」と「動物園」は違っているのだ。
 私はまたまた馬鹿馬鹿しいことを問うているのだろうか。当たり前のことを、大袈裟に問うているのだろうか。
「絵本」と「動物園」は違っている。違っていて当たり前だ。そこまでは私もわかる。それから「絵本」には、絵本の世界があり、動物園には動物園の世界があるというのもわかる。では、百歩ゆずって、「絵本」には「絵本の世界」があるとして、ならばそこでぞうの上にかばが乗り、かばの上に、わにが乗り、その上にかめが乗って散歩するという話は、実際の動物を子どもに伝えないとしたらいったい何を伝えようとしている絵本なのか。親は、単純に、動物のいる絵本を見せてあげようと思っているのに、それは実際の動物ではないということは、いったいそういう絵本を見せることで親は子どもに何を見せていることになっているのだろうか。
 もちろん、絵本は絵本、絵本では絵本らし動物を見せ上げて、実際の動物は動物園で見せて上げればいいんだから、という人がいるかもしれない。しかし、そういうことなんだろうか。動物園には実際の動物がいるんだろうか。たしかに、ぞうの上にかばが乗り、かばの上に、わにが乗るというような、馬鹿げた光景は動物園では見られないが、それというのも、動物園には「檻」や「柵」があるからではないか。「檻」や「柵」の中にいる動物を見るというのは、「実際の動物」を見ていることになるのだろうか。「檻」越しに見るライオンは、飛びかかってくるライオンを見ることではないから、それは実際のライオンを見ていることになるのだろうか、と尋ねたくなってくる。
 絵本が不自然な動物を描いているとしたら、動物園もじつはかなり不自然な動物を子どもに見せていたのではないか、と疑問をもたなくてならないだろう。
 しかし、私の疑問はそんなへそ曲がりで愚かな疑問を出そうとしているわけではない。そうではなくて、そんな不自然さを押してまで、なぜ人は子どもに「動物」を見せてあげようとしてきたのかというのが、私の素朴な疑問なのである。

 のちに指摘することになるのだが、さらに問題を言えば二つある。
 一つは、動物がしゃべるという問題。こういうしゃべる動物を「動物」と呼んで良いのかという問題がある。
 もう一つは、こういう動物は何を食べているのか、という問題。つまり、お互いに食べ合うことはないのかという問題。つまり、ワニはカバを食べないのかという問題。
 こういう問いを「絵本」に向けるというのは馬鹿げていると思う。確かに馬鹿げているけれど、だからそういう問いを出すのを私たちは避けてきたのである。

 吉本隆明 『言葉からの触手』
 肉体には食物がどうしても必要だ。/おなじく精神、(略)にも、食物は必要だ。精神にとっての食物、つまり言語。言葉をしゃべったり、書いたりするのは、精神が喰べてることだ。しゃべっているとき、書いているとき、精神は空腹をみたしているのだが、そのときほんとに養分として摂取されるのは、ごくわずかで、あとは老廃物として排せつされているのとおなじだ。/沈黙ははんたいに、精神が空腹、飢餓、断食の状態にあることだといえる。その状態に耐えられなくなったとき、わたしたちはひとりでにしゃべったり、書いたりするのだ。また意識して精神はじぶんを沈黙の状態におき、老廃物の摂取を断ち切ろうとかんがえるときがある。そのばあい空腹や飢餓や断食は精神をそこなわない限度で行われる。/精神は食物と意識せずになんでも喰べてしまう器官をもそなえている。(略)肉体は口腔や胃や腸のような、食物を喰べ摂取し、排せつする器官系のほかに、嘱目の事象すべてを摂取し、消化する器官をもっているというように。視たり、聴いたり、また触れたり、匂いを嗅いだり、味わったりという感覚をつかさどる器官は、嘱目の事象についての口腔なのだ。このばあい嘱目の事象が食物のかたちをしていないために、どれだけ摂取され、養分として身体のなかに蓄積されるものか、まったくわからない。




2 「ジャングル」とは何か

 ● 一匹づつからたくさんな動物へ

 なぜ絵本で動物を見せるのか、なぜ動物園に行こうとするのか、という疑問をたどってゆくと、そもそも動物園とは何なのかという疑問にたどり着く。
 答え方は幾通りにも考えられるだろうが、わかりやすい考え方はきっとこうであろう。人々のまわりに動物がいっぱいいた頃には「動物園」は必要がなかった、と。当たり前のことである。狩猟をして暮らしていた時には、森や草原でさまざまな動物を獲物として追いかけていたのだから。
 ところが、ある時代から、「動物園」と呼ばれるものを作りだした。それは、まわりに動物がいなくなった時代からである。都市ができてからのことだ。ここで「動物園の歴史」をたどろうというのではない。調べたい人は『動物園というメディア』などを読まれるといいだろう。私の訪ねたいのは、そうした実際に作られていった「動物園」のことではなくて、動物が身近にいなくなった時代になぜ、人は動物が「身近にいる」という話や場所を作らざるを得なかったのかということである。
 かつて『イソップ寓話』があり、それを受けて中世にラ・フォンテーヌ『寓話』1668岩波文庫がある。これも実は「紙上の動物園」なのである。こういう「話」を通して人々は、身近に見られなくなった「動物」、あるいは見たこともない珍しい「動物」を見ることができていた。しかし、こうした物語は、まさに一匹づつの動物の集合である。
 大航海時代は、植民地化の時代でもあるのだが、その航海術を踏まえて、見知らぬ土地の風習をヨーロッパに見せてくれることになった。
 『ロビンソンクルーソー』1719や『ガリバー旅行記』1728『宝島』1883はまさに航海術があってできた作品である。

 しかし、ダーウィンの『ビーグル号航海記』1839のように「航海記」とともに見えてくる異国の動物は、また都市化されていた町では見られないもので、人々の興味を誘った。『種の起源』1859などは、さらに進化論という度肝を抜くような新しい発想で、再び動物を身近に感じるようにさせてきていた。
 『ファーブル昆虫記』1879などは、あまりにも身近にいる生き物がいかに不思議で驚くべき生態を示しているかを人々に見せてくれることになっていった。すでに、ミシュレも、こうした『鳥』1856『虫』1857という先駆的な本を書いていた。
 博物学という分野は、こうして「大航海」をできる技術と富とで植民地から集めた珍しい生き物を集めて「博物学」という学問の分野を開くことになった。

 『みにくいアヒルの子』1835『フランダースの犬』1872『ニルスの不思議な旅』1906
 などは、基本的には一匹づつの動物である。

 こうして『ジャングルブック』1894という本が出ることになる。一匹づつの動物を相手にするというのではなく、たくさんな動物の中に少しの人間がいるという物語である。

 そして『類人猿ターザン』1912が書かれ、ターザン映画がつぎつぎに制作されるようになる。『ドリトル先生アフリカ行き』1920もその延長で多くの読者を得ることになる。

 日本でも、そうした「ターザンもの」と「南方の植民地化」の歴史を背景に『冒険ダン吉』1934などの「南方ージャングル冒険物語」が書かれ、多くの読者を獲得することになる。『少年王者』1947『少年ケニア』1951などが書かれ、いわゆる「ジャングルもの」が、長い系譜を背景に続いてゆくことになる。
 当然そこには、「南方」の「植民地化を進める帝国主義的な先進国の動きと連動しているものがある。」

 そんな系譜の中に手塚治虫の『ジャングル大帝』1950が出現する。これを書くまでにすでに彼は『ジャングル魔境』1848『ターザンの秘密基地』1848『ロストワールド』1848「くるったジャングル」1950などを書いていた。彼の「ジャングル」への関心が早くからあったことがわかるが、それは彼の特徴というだけではなく、すでに児童文化の系譜の中に「ジャングルもの」へのなみなみならぬ関心が続いてきたからである。
繰り返し指摘しているように、こうした「ジャングルもの」が書かれる背景には、大航海時代からの植民地主義の発想がある。手塚治虫の『ジャングル大帝』も、こうした植民地批評から激しく批判され続けてきた。とくに「黒人」や「先住民」を「土人」として描き、思慮や知性のないような描き方をしているところは見るに耐えないところががある。手塚治虫も批判された所はことごとく書き直してきている。しかし、『ジャングル大帝』は批判された黒人や先住民を描いただけの作品ではなかったのである。
 そこのところちゃんと評価しないとこの作品のもつ「深み」が受け止められなくなる。特に、今日のように、口を開けば判で押したように植民地主義を持ち出して批評をし、それだけで何かを言ったように気になるような批評は、読み手に思考停止させてしまう。つまり「植民地主義的」というレッテルを貼るだけで、その作品の駄目さ加減をいってしまうことにして、それ以外の目でその作品を作品を見る発想を止めてしまうのである。

 私はこういう植民地批判至上主義とでも呼べる批評に出会うとうんざりする。私がここで取り上げようとしている「ジャングルもの」が抱えるテーマは、そういう植民地批評に収まらないものを含んでいる。




3 新しい「ジャングル」ー幻獣の世界へ

 一匹ずつの動物から、たくさんの動物を相手にするときに「ジャングル」という発想の出てくることはわかった。普通「動物」といえば、見に見える鳥や獣ということになるのだが、「ジャングル」といえば、やこうした見に見える大型の生き物だけではなく、何やら目に見えない所でうごめく生き物たちの棲む所というイメージが出てくる。とくに、ジャングルといえば動物だけに限らず、うっそうと茂る巨大な植物群も同時にイメージされてきた。
ターザン映画の醍醐味の一つは、巨木から巨木の間を、蔦で飛び渡るシーンであり、まさにジャングルでは植物も主役の一人だったのである。
 「ジャングル」という言い方の中に、そういう無数の動植物を含むことはわかるとして、それでもすべての生き物がその「ジャングル」というイメージの中に包括されてしまえるのかというと、疑問がでてくるのである。というのも、一角獣や天馬や龍や火の鳥や河童などは、どこにはいるのかわからないからである。とくに子どもたちのよく知っている、人魚や妖精やムーミンなどはどうなるのか、ミッキーマウスやトトロはどうなるのか、ゴジラやガメラはどうなるのか、ということが「問題」になってくる。
 もちろん大人たちは、そういう「疑問」は「問題」にしない。そんな動物は、架空の、作り話の動物であって、そういうものを生きた動物と同じように考えてはいけない、というのは当たり前のことだからである。
 しかし、どういう動物が生きているもので、どういう動物がうその生き物であるかなどいうことは、私たち大人にとってもそんなにはっきりわかっているわけではないのである。
 ネッシーや雪男なるものを追い求める馬鹿げたプロジェクトが何度つくられたことか。
 架空の生き物か現実に存在する生き物かの区別は、大人が思っている以上に簡単にはつけられない。
 というのも、その証拠にというのではないが、最初に上げた『ぞうくんのさんぽ』では、象の上に乗るカバも、カバの上に乗る鰐も、じつは、現実の象やカバや鰐ではないはずなのだ。しゃべる象やカバや鰐という設定そのものにおいて、すでに彼らは「動物」ではあり得ないのだから。でも、私たちは、彼らをいかにも「実際に存在する動物」のように子どもに教え込む。子ども自身も、こういう散歩しお喋りする絵本の中の動物を、実際に生きている生き物のように感じている。
 こういう「問題」を解くには、心の中で思い描く動物もやはり心の中では生きている動物なのだという視点が必要になる。そういう動物を人々は「幻獣」と呼んできているのだが、私は「幻獣も生きている」のだと考えないと、話が合わなくなってくると考えている。ということは、そういう幻獣も生きている場所の設定を考えなくてはならなくなるということだ。私は、実際のジャングルと、幻獣のいる世界を、まったく異質と考え、二分法的に分けてすませていてはいけないのだと考えている。
 それが「新しいジャングル」と呼ぶべき地平なのだと考える。