じゃのめ見聞録  No, 39

アルプスと『アルプスの少女ハイジ』
ー宮崎アニメへの一視点ー



2003.12.30

■ アルプスからのはじまり

 アニメ『アルプスの少女ハイジ』の不思議な魅力。特別な出来事が何も起こらないアニメなのに、子どもたちの興味をいつも引き続けてきました。どこにそんな魅力があるのでしょうか。
 以前、テレビで、実際のスイスにある「ハイジの山小屋」と呼ばれている家を見ました。かなりがっかりしました。アニメで見ていた小屋とずいぶん違っていたからです。小屋の形が違うとか、そういうことではありません。アニメでは、見上げるような山の高いところに小屋が描かれていたのに、テレビに映ったハイジの小屋は、ずいぶんとなだらかな斜面の所に立っていたからです。
 私たちは、『アルプスの少女ハイジ』というと、急な斜面をハイジが登ったり転がり落ちたりしているイメージで見てきているのですが、実際の生活はそんな急斜面ではできるわけがなく、ごくなだらかな斜面の中で地元の人たちは暮らしていたんですね。それが普通の姿だったんです。でも、アニメの中のハイジは、違っていました。毎日、毎日、急な斜面のアルプスを、登ったり下りたりしているように見えていました。ひょっとしたら、こういうところにアニメ版『アルプスの少女ハイジ』の人気の秘密があるのかもしれません。
 実際に、アニメを作る前に、宮崎さんらは現地取材しています。たくさんの現地の写真を撮って帰られたということでした。でも、現実にアニメを描いたときは、ハイジの暮らすアルプスは、そそり立つような急斜面のアルプスに描かれていました。そういう意味で言えば、『アルプスの少女ハイジ』の主人公はハイジなのですが、アニメにはもう一つ陰の主人公がいたように思えます。その主人公はこの「アルプス」なのではないか、と。
そもそもアルプスとは、地面が押し上げられて作られた自然の造形です。そこには、他に見られない「高み」が存在します。その「高み」に登ると、後はもう「下へ」おちるしかありません。アルプスの成り立ちそのものが、「上」へ押し上げられながら、雨風に浸食され、下へ崩れ落ちるという、二つの動きの中にあったのですか、当然といえば当然のことかもしれませんが。
 私たちがアルプスを見て「すごいな」と感じるのは、まさにそこに、「高みへ上がる動き」と、「下に崩れる動き」の、両方の壮大なドラマを見る感じがあるからなのでしょう。アルプスというものを、そういうふうに見ることを私に教えてくれたのはジンメルという哲学者でした。(「アルプス」というエッセイ参照)。こうした「高さ」と「崩壊」のドラマが、目に見えるように描かれるためには、その「高さ」はできるだけ「高い」方がいいし、「崩壊」もできるだけ高みからの崩れの方が目に止まりやすいものです。そういう目に止まりやすい「高さ」と「崩壊」の運動の上下を、ここで「垂直の動き」と呼べば、そういう動きを使って描かれる芸術は、さらに「垂直の美学」と呼ぶことができます。そして、まさに宮崎駿さんの創作活動は、この「垂直の美学」を意識して作り出されているところがあったとわたしは感じています。




■ 「垂直の美学」について

 アルプスの少女ハイジは、小さくして両親を亡くし、アルムの山小屋にすむおじいさんに預けられるのですが、この時点ですでにハイジの家族に「崩れ」があったのがわかります。両親が崩壊しているのですから。でもハイジはこの「崩れ」にめげずに、自分を「上」に持ち上げようとします。それがアルプスの斜面を登るハイジの姿に投影されてゆきます。
 アルムのおじいさんも社会から隠遁しているような「変わり者」と見られていました。友達のペーターも学校にいっていない「不登校児」でしたし、ペーターのおかあさんは、目の見えない「障害者」でした。のちにフランクフルトへ出てきて、知り合うクララも足の不自由な「障害者」でした。このようにこの『アルプスの少女ハイジ』に登場する人々は、どこかで「社会的な位置」から「落ちている」人々でした。
 そういう人たちが、でも「アルプス」という「垂直」の中では、けっして「落ちる」だけではなくて、アルプスのもう一つの面、つまり「上へと上がる動き」として生きて暮らしているところが描かれます。おそらく、この「落ちながら」も「上を向いて生きる」人々を描く『アルプスの少女ハイジ』に、おそらく多くの人々は共感を抱いてきたのではないでしょうか。
 障害、病気、死・・壊れ、崩れてゆくものが、すでに私たちの深い内部に始めから準備されている、とジンメルが書いていました。生きているという状態は、すでに死へ向かって崩れるものを抱えつつ、崩れきらないように持ち上げている状態のことです。それは「障害者」だからというだけでなく、わたしたちが誰でも抱えているものです。それは油断をしたり、持ち上げる意志を失うと、とたんにガラガラと崩れてゆくものでもあります。こうした「落下」や「崩壊」の動きに対して、「もち上げ」や「上昇」の動きを対比させるのが、「垂直の美学」です。
 この「垂直の美学」は、後の『未来少年コナン』で、インダストリアと呼ばれる要塞を、上がったり下がったりしながらラナを助けるコナンの姿や、『カリオストラの城』で、城の屋根を何度も滑り落ちながらもよじ登り、クラリスを助けに行くルパンの姿に効果的に使われてゆきます。こうした「要塞インダストリア」や「カリオストラの城」は、ある意味での「小さなアルプス」といってもいいものです。ここで「精神」が落下と上昇の間の運動として設定され、それが見ている者を、はらはらさせながらも、落ちることにくじけずに登ってゆく向日性に深い共感を与えてきました。
 そういう精神の動き、あるいは「垂直の美学」は、さらに精錬されて『風の谷のナウシカ』や『天空の城ラピュタ』のの落下と上昇のドラマにひきつがれてゆくのを私たちは見ることになるでしょう。
 



■ 回復の物語

 宮崎アニメの特徴を、簡単に言うことはできませんが、宮崎アニメには、いつも「落ちてゆくもの」とそれを「もち上げるもの」の両方の運動がある、と多くの人は感じてきたと思います。それは、また私たちの普段の心の動きであり、地球や自然の動きでもあるように思います。子どもたちも、日々の暮らしの中で、どこかで「落ちてゆく自分」を感じつつ、それを「もち上げてくれるもの」をどこかで感じながら生きてきています。でも、子どもたちはいろんな面で無力ですから、自分で自分を「持ち上げる」ことは、そんなにうまくはいきません。成績が悪かったり、友達にいじわるをされると、それだけで「落ちてゆく」感じを味わってしまいます。そんなときは、どこかで、大人の支え、大人からの評価、大人からの「もち上げ」を求めるのですが、でも、「大人たち」がそんなことをしてくれるのかというと、実際はそんなことはなく、むしろ、子どもの弱点を「悪く」言うことの方が多いものです。
 そんなふうに、「落ちている」のに、支えや評価やもち上げをうまくしてもらえない子どもは、どうしたらいいのでしょうか。どこかで一人でがんばってそういうことをしないといけなくなるのではないでしょうか。その手伝いをしてくれるものに、「物語」というものがあったのではないかとわたしは思っています。
私たちは誰でも(大人でも、子どもでも)日々しくじりや失敗をして、どこかへ落ちてゆくような経験をしているものですが、でもまた気持ちを持ち直して、「ええぃ」とばかり奮起して起き上がり、新たに困難に立ち向かって上昇してゆくという心の切り替えをしています。
 ここで大事なところは、すっかり落ちてしまえば「死」なのですが、それの手前で「上昇」に転じるきっかけを手に入れることがある、と考えるところです。そのきっかけを与えてくれるものに「物語」があると私は感じてきました。ふっと見た「物語」が、私たちの落下をくい止め、上昇に転じる動きを与えてくることがあるんです。
 この人生の上昇と落下の運動をじっと見つめてきた人が宮崎駿さんで、その再起し、奮起する運動を、なんとかしてアニメの中に取りこもうとしてこられました。多くの子どもは、何度も何度も、セリフを言えるほどに宮崎アニメを見てきたといいます。理由の多くは、宮崎さんのアニメを見ると元気が出るからというものでした。宮崎アニメには、確かに、自分に元気を取り戻す「再起点」が、あちこちに隠されています。そういう「再起点」は、宮崎アニメ特有の「高さ」を生かした上昇と落下の作画の中で、つまりその「垂直の美学」を通してはじめて実現されているんだと思います。