じゃのめ見聞録  No, 35

『猫の老眼鏡』と『晩年学通信 最後の日記抄・闘病記』 の紹介とあとがき


  『猫の老眼鏡』の紹介

 上野瞭先生が亡くなられた一周忌に、京都新聞に連載されていた50回分のエッセイを一冊の冊子にまとめました。家のこと、奥さんのこと、野良猫のこと、定年退職のこと、イタリア旅行のこと、終戦当時のこと、そんなさまざまな日常生活の風景が話題にされています。でも、そのあいまあいまに自分の弱さや愚かさ、晩年の哀愁を、こんなにしみじみと時にはユーモアをこめて書いてあるエッセイに出会うことは、めったにないのではないでしょうか。

  「よく覚えていないが悲しい夢を見てオイオイ泣き出し、自分のその泣き声で目を覚ましたことがある。/父や母が亡くなった時まったく泣かなかったのに、ずっと後で夢で二人に出会い、話し合っているうちに涙があふれてきた」

  「ぼくは紙切れ一枚を捨てるのさえためらってしまう男である。そんなぼくが今までに何を捨ててきたか。一番大きいのは「親を捨てた」ということであろう。/母親は嘆いた。なぜなら貧しい母親は、ぼくを精神的な支えとして傍らに置いておきたかったからである。」

 偉そうなことを書かないというだけはなくて、本当なら隠しておきたいようなこと、自分を辱めるようなこと、そんなことを上野先生はあえて書き留めておこうとされる。あんたにも、目をそらしているものがあるのとちがうんか、と行間から先生の声が聞こえてくるような、そんな不思議な文章を味わえる小冊子です。
「ヴァイン」Vol.30 2003 夏




『猫の老眼鏡』 あとがき

 「猫の老眼鏡」は、1994年10月25日から1995年10月14日まで、計50回にわたり京都新聞に連載されたエッセイです。とっても味わい深いエッセイなので、ぜひ多くの人に読んでいただけたらと考えました。

 2002年1月27日に上野先生が亡くなられ(73歳でした)、その後、奥様ならびに晩年学フォーラムを一緒に運営されてこられた片山寿昭、中村義一両先生らと、遺稿集のようなものが発刊できたらと考えてきたのですが、先生はいろんなところに、いろんなスタイルのもの(たとえば、詩、童話、エッセイ、批評、小説、論文、講演、日記、挿絵など)を書かれており、集めるととっても大部のものになることがわかってきました。もちろん、私たちの知らない所にも書かれていることもわかってきましたので、今急いで中途半端なものを出すよりか、「上野瞭遺稿刊行会」のようなものを準備して、年譜、著書目録の整理をした上で、少しずつ、正確なものを発刊できた方がいいのではないかと考えました。それで、一周忌をめどに、比較的まとまりがあって、上野先生らしさがいっぱいあふれているものをまとめられたらということになり、「猫の老眼鏡」に的を絞ることになりました。

 当時の新聞連載時のカットは息子さんの上野宏介さんが担当されていましが、今回は、カットを入れるスペースの小さいこともあって、残念ながらそれを使うことができませんでした。その代わり、晩年学通信に上野先生ご自身が書かれていたカットを再利用させていただきました。これで、文章を味わって、カットも味わえるという、一粒で二度おいしいエッセイ集になっているのではないと思います。こんなに行間から「声」が聞こえてくるような文章を目にされることは、近頃は珍しくなってきているように思われますので、ぜひ在りし日の上野先生のご様子を思い出しながら読んでいただけたらと願っております。

 なお、本文の編集は片山寿昭先生が引き受けて下さいました。ありがとうございました。

晩年学フォーラム事務局 村瀬 学
2003年1月27日 発行




『晩年学通信 最後の日記抄・闘病記』 あとがき

 上野先生の「仕事」はいくつかの系に分けられます。注目されてきたのは小説系と批評系ですが、他にも、映画鑑賞系、イラスト画系、講演系、宴会盛り上げ系・・など、いろいろありました。そんな中でも、うんと長く続けられてきたものに日記系の分野があります。そして実はこの日記系が、先生のとっても重要な仕事分野の一つでもあったことを私たちは知っています。

 ここでいう日記系の仕事は、大きくは「一人称の日記系」と「イーヨーの日記系」とに分けられますが、ここでは一括して紹介しておきます。まとめられた主なものは、次のようなタイトルで活字化されてきています。

 「贋金づくり日記抄T・U」(『わたしの児童文学ノート』理論社一九七0に収録)
 「イーヨーの灰色の思い」(『われらの時代のピーター・パン』晶文社一九七八に収録)
 「灰色ろばの日記抄」(『アリスたちの麦わら帽子』理論社一九八四に収録)
 『日本のプー横町』光村図書一九八五
 『晴れ、ときどき苦もあり』PHP一九九二
 『ただいま故障中』晶文社一九九八

 最後の三冊は、全編これ「日記」と呼んで良いようなスタイルで書かれています。特に『ただいま故障中』は、晩年学通信の四十二号までの抜粋を納めています。そして、今回のこの冊子は、その後を受けた晩年学通信の最後の「イーヨーの日記抄」ということになります。ですから、こうした「日記系」と呼ぶ文章だけでも集めると、それだけでとても大きな分量になることがわかります。いったい「日記」あるいは「日記系」というのは、上野先生にとってどういう「仕事」になっていたのでしょうか。

 自分の「日記」を公表することは、多くの人は抵抗を感じられるように思われます。でも、上野先生の場合は、いろんな思惑がからまって、あえて、そういうことをしてこられたように思います。

 私たちには、たぶん、「人に弱みを見せない」ということをモットーに生きているところがあります。が、上野先生は逆に、大学の先生でありながら、いや大学の先生であるからこそ、「偉そうにしない」ということ、「自分の弱さを見せる」ことをモットーにされて来られたところがあるように思われます。「大衆的」といえばいいのでしょうか、「ええかっこしない」生き方。そこに上野先生らしさがありました。

 「人の不幸がおもしろい」は先生の口癖でした。「成功した人の話なんかおもろいか、そんな自慢話が聞きたいか、ぼくは聞きとうないな」と。「ぶざま」であること、「みぐるしい」ということ、が、人生にある。でも、しょうがないやんか、そういうことがあるんやから。とりかえしのつかないことがあるんや、そやろ、あのときは、そういうふうにしか生きられへんかったんやから。でも、ぼくだけか、そんなことをしてるのは。黙ってるけど、あんたもそうやないんかいな。

 「日記」から聞こえてくるのは、そういう先生の「声」のように思われます。自虐のように聞こえますか。そうではないと思います。「ぶざま」であることを、隠したりせんでもええやんか、すましたりしてんと、「わたしにも、こんなアホなとこがあるんですって、ゆうたらどうやねん」という生き方。先生の「日記」は、そういう「生き方」というか、そういう「笑い顔」から創られてきているように思われます。

 もちろん今回の「日記抄」には、それだけではなく、最後の闘病記という性質も併せ持っています。その部分は私などのコメントのできるところではなく、一人で静かに読んでいただくしかないものですが、こういう闘病記を残せるということは、誰にでもなし得るものではないということを私は日に日に痛感してきています。

 終わりになりましたが、今回の原稿は、片山先生が、晩年学通信に載せられた原本を一本にまとめてくださったものを使用させていただきました。ありがとうございました。校正は、いつものように上さんが一緒に手助けしてやってくれました。でも、まだまだ校正仕切れていないところが残っていると思います。気がつかれたらお知らせください。なお、上野先生の絶版になっている小説や評論集は、インターネットの「日本の古本屋」というサイトで検索して頂くと、まだまだ安く手に入ります。

 ともあれ、今回の冊子はお盆までには間に合うようにできそうですから、ほっとしています。

2003年6月 村瀬 学