じゃのめ見聞録  No, 34

再び「透明な存在」が出現かー12歳の闇

 
 小さい子どもをハサミで斬りつけ、ビルの下へ投げ落とす12歳、というような報道を聞くと、想像するのもイヤになる反面、いったい何でそんなことをするのか、その動機はどうしても知りたいという気持ちにも駆られる。一般の人でもそうだから、そういうことを記事にしなければならない記者にとっては、この「どうしても知りたい」という気持ちはひとしおであろう。同じように「どうしても」という気持ちが、10歳頃から「性的なもの」への関心として誰にでもふくらんでくる、とまず考えることは大事であろう。性的なものを知りたいということは誰にでも起こる。しかし、「どうしても」というわけにはゆかない。現実にはさまさまなセーブがかかるからだ。特に「みんなの目」を意識すると「厚かましい」取材ができないように、そこでは「どうしても」という一方的な行動は回避され、「適度」に収まる。まあいいやとか、いづれまた、というふうに後回しにもされる。それがたいていの人のとる行動であろう。

 でも、「どうしても」が実行できる場合がある。それが「子ども」を相手にする場合だ。子どもだけがいる場合には、ふだん満たされない「性的なものを見たい・知りたい」という欲求にセーブがかからなくなる者がいる。「見たい・知りたい」は「欲しい」ということでもあり、「持っておきたい」ということにもつながり、ハサミで切り取ってでも、監禁してでも自分の所有にしたいということにもつながる。

 長崎の12歳の中学生の起こした事件で、繰り返し疑問にされたことに、目立つ制服姿で、なぜあれだけの監視カメラのあるアーケードを子どもを連れて歩いていたのかという問いがあった。考えられることは、その中学生が「みんなの目」をうまく意識できていなかったから、ああいう卑劣な行動をとることになったということであろう。その卑劣な行動をとるために、小さい子どもを安心させるのに中学生という制服姿はもっとも適していたのかもしれない。

 「みんなの目」というのは、本当は共に暮らすものの同士が相互に評価しあう中で形成されるものだ。暮らしの中で「相互評価」がなされないと、一方的に「自分の目」ばかりが肥大し、相手を評価して見るということができにくくなる。「みんなの目」が意識されないところでは、人はそうとうひどいことをしてしまう生き物なのである。かつて、酒鬼薔薇聖斗と名乗った中学生は、自分を「透明な存在」と呼んでいた。「透明な存在」とは「みんなの目」に映らない存在ということだ。長崎の中学生も、監視カメラの前で自分を「透明な存在」として見ていたとしかいいようがないのではないか。再び「透明な存在」が出現した、今回の事件をみて改めてそのことを思った。