じゃのめ見聞録  No, 31

「イラク戦争」は本当に「戦争」だったのだろうか
    
ー「戦況報道」と「戦場報道」のはざまで考えるー
  
2003.4.10

 1 これを「戦争」と呼んでいいのだろうか

 今回もそうであるが、2001年秋のアフガン戦争で感じ、そして書いたことをそのまま思い出す。
アフガン戦争の時に、テレビに登場する専門家は、この戦争は泥沼のような戦争になる、ベトナム戦争の二の前になる、と予想したものだった。

けれども、空軍を持たず、偵察衛星をもたず、隣国の支援も受けることのできないタリバンの軍隊が、どうしてアメリカの巨大なハイテク兵力に勝つことができるのか、それは、子どもと大人のけんかのようなものではないのか、と私は書いた。

  (● 「戦争」のイメージは、いつから、どういうふうに変わってきたんだろうか
   −「電子戦争」への見方が早く共有されなくてはと思いながら− 2001.12.3 「じゃのめ見聞録」)
  (● アフガンの戦争について −ニュースと映像と事実の間で− 2001.11.18「じゃのめ見聞録」)

 今回のイラク戦争を見ても、状況は、全く同じではなかったか。空軍を持たず、偵察衛星をもたず、隣国の支援も受けることのできないイラクの軍隊、ということになれば、それはいくら数の上でアフガンの兵士より上回っていても、それは「戦争」にはならないはずの「差」があったはずなのだ。

 唯一の懸念は、化学兵器を使用するのではないかというものだが、もしそれを現実に使えば、世界の非難を受けるだけだからそんなものを使うこともできなかったはずだ。 そのことを考えると、今回の「イラク戦争」と呼ばれてきたものは、「戦争」ではなく、「狩り」のようなものではなかったかと、私は思う。
  「狩り」とは、大人数で「狩り場」を取り囲み、「獲物」を追いつめるものである。自分たちの「安全」は九分九厘確保されている。心配があるとしたら、痛手を負った獣が、思いも寄らない形で逆襲してくるくらいのものである。あとは、先手先手を打って、「獲物」の逃げ道をふさぎ、追いかけ、攻撃するのみである。「狩り」とは一方が安全を保障される殺害行動のことである。

 こういう戦争が「ゲーム」に見えてきたのは、そういうふうに見る方が悪いのではなく、「ゲーム」をするものの安全性と、「狩り」の安全性が似ていたからであり、そういう「狩り」のように設定されたものを、「戦争」として見させているところがあったからではないか。

 私たちが中学や高校で教科書で教わった「いくさ」や「合戦」は、「敵の布陣」を読み合うところで展開されるものだった。「関ヶ原の合戦」などといわれるものも、どこにどういう兵力が布陣しているのか、それをいち早く読み取ることが勝敗を決めるものになっていた。すでに戦いは、いつでも、相手の動きをいち早く察知する情報戦であった。情報を得たものが勝ちであった。

 もし、あの「関ヶ原の合戦」が、今行われるとしたら、あの「関ヶ原」一帯を「上から見る目」をもった方が圧倒的に有利であることは、いうまでもない。「上から見る目」を持つことができれば、相手の動きは一目瞭然なのだから、その弱点にいくらでも有効な攻撃を仕掛けることができる。

 アフガンやイラクの戦場は、まさにそういう「上から見られる戦場」であった。さまざまな、偵察衛星が、一メート四方の映像を、四六時中監視し、敵の動きがどうなのか、見つめ続けていた。そういうことができるのがアメリカの陣営だった。方や、アフガンやイラクの側はというと、アメリカの動きが何も読み取れない。読み取るすべがないのだから。一機の戦闘機もヘリコプターもない。「上から」アメリカの兵力を読み取るすべは何もない。
ということは、どういうことになるかというと、こういう状況下で「戦争」が起こると、片方はほとんど無傷の形で進撃をし、片方はほとんど壊滅的な打撃を受け続けるとということになる。壊滅的というのは、「敵の兵士の皆殺し」ができるという意味である。

 しかし、そういうものを従来のように「戦争」と呼んで良いのだろうか、と私は思う。それはやはり「殺戮」あるいは「大量殺戮」と呼ぶべきではないのか。




  2 「戦況報道」といういかがわしさ ー「戦況」と「戦場」の違いー

 私が、今回の「戦争」でも、本当に気味悪く感じたのは、NHKの垂れ流す「戦況報道」だった。とくに何とか中東研究員とか軍事評論家と肩書きのついた人物が、刻々と変わる「戦況」を見てきたかのように「説明」するニュースだった。その中でも、元イラク大使館職員、大野元裕という人物が、繰り返し「おもしろいことには」という言い回しを連発しながら、米軍の行動を説明するのに毎回出会うと、「いったい、こいつは何がおもしろいのだ!この男の頭の中はどうなっているんだ!」と歯ぎしりしたものだった。よくNHKはこういう暴言を止めないものだと、それにも腹が立っていた。
こういう「解説者(本当は解説者なんてものではなくて、ただの情報の中継屋なのに)」が、したり顔で「戦争」の説明をしていると思っているものは、じつは「戦争」ではなく単なる「上から見た戦況」の中継にすぎない。その証拠に、スタジオにはいつも大きなイラクの模型が置かれていて、それをまさに空の上から見るようにして見ながら「解説」するのである。

 勘違いしてはいけないが、こういうふうにイラクの上空からイラクを眺められるのは、軍部だけである。だから、こういう視線で「状況」を説明するというのは、まさに「軍部の目」で見ているんだということを忘れてはならないのである。ところが、大野なにがし他の解説者たちは、そういう軍人の視線を「おもしろいことには」という形容で追認しながらゲームのように解説している。彼らは、「戦況」を説明しているだけだと思っているかも知れないが、彼らは「軍人の立場」で「状況」をつねに見ているんだということを、すっかり忘れている。だから「おもしろい」といえるのだ。それは「狩りの視線」である。




 3 「戦争報道」への提言 ーなぜ「戦場」が報道できないのかー

 「戦場報道」と「戦況報道」は違うのだということを、報道関係者にもっと理解してほしいと思う。

 くり返していうことになるが、「戦況」は「上からの目」を持つものだけが見える状況だが、「戦場」はまさに「人の目の高さ」でしか見えないものの状況である。そしてそこには、悲惨な負傷者や残酷な死が見える。
確かに「戦況」を知りたいという人々はいるだろう。しかし、報道の関係者としては、「戦場」の報道こそが「戦争」というものを伝える手段なのだということを、忘れないでいてもらいたい。「戦況」の方は、いつでも「軍部」がデマもふくめ積極的に発表してくれているのだから。

 現実には、従軍の取材班は、軍部の統制下におかれ、自由な報道はできないことはよくわかっている。けれども、従軍記者が「現地」から送ってくる無数の映像や情報を、日本でマスメディア自らが、さらに「自己検閲」「自己制限」して、悲惨な映像は流さないようにしていることを、今回の「イラク戦争報道」でも私は改めて強く感じた。

 軍部が作戦に支障があるから、報道規制すると言うのは当然であると思うが、それにひっかからない戦場の悲惨な映像も、なにかしら「自己制御」して報道していないことを強く感じた。

 その理由の大きなものは、報道におけるあまりにも残酷なシーンや遺体のシーンの放映が、元々の放送規制に引っかかるからではないかと思われる。軍部の規制以外に、普段の自らの報道規制に引っかかるのである。だから、負傷した人がいても、手当をされたあとの映像を見せるのが精一杯で、それ以前の生々しい負傷の姿なんかを報道するのはとんでもないということになる。

 私は、普段の日常生活では、そういう報道の自己規制はあってもいいと思う。あまりにも残酷なシーンを、普段のお茶の間に垂れ流すのはよくないと私も思う。

 けれども、「戦争」という、何千人、何万人という兵士や民間人が傷つき亡くなる状況を、そういう普段の日常の報道規制を適用して、穏便な報道内容だけにしてしまうというのは、本当にいいことなんだろうか、と私は思う。
 人々の惨状を伝えることができるのは、地上の目をもって歩く報道記者だけである。その地上で見たものを報道することで、はじめて「戦争」の悲惨さを人々に思い知らせることができるのに、そういう報道局が「戦局」や「戦況」なる「上からの目」の報道ばかりに力点を置くのは、やはり間違っていると私は思う。
私は、今回の「イラク戦争」を機会に、もっと世界規模で「戦争報道」のあり方を論じ、もっと踏み込んだ報道の自由さを求める決議をするべきだと考える。「戦況報道」ではなく、「戦場報道」の必要さの確認を、である。
悲惨な「戦場報道」は、かならず戦争の抑止力になると私は思う。しかし「戦況報道」は、人々の戦意を高揚させて、戦争肯定に人々を走らせるだけである。
 (そのことは、先日「今だからこそ遺体報道論」をー「イラク戦争」の報道姿勢への批判をこめてー2003.3.30」に書いたとおりである。)

 願わくば、今回の「イラク戦争」で亡くなったイラク兵士の人数をはっきりと確認し、終わってしまった戦場の様子でも、その惨状を忘れずに報道してほしいということである。「バグダッドの笑顔」は、戦場に兵士を送っていない人たちのものであろう。どれだけ多くの兵士が「狩り」のような「戦争」で殺されていったかを考えると、イラクのみんながあのように「笑顔」でいられるとはどうしても思われないからだ。




4  今後のことで気になること  ー軍備更新する唯一の軍事大国・アメリカー

 今回の「イラク戦争」で人々が一番驚いたのは、アメリカが国連の決議を得ないで「」戦争」を仕掛けたことだった。石油の利権がどうだとか、動機となる憶測はいっぱい飛び交ったが、そんなことよりか、実際にアメリカがイギリスと二国だけで「戦争」に踏み切ることができたということに驚かざるを得ない。
私はこの国連決議の経過を見ながら、改めて国連という神話を見たように感じた。それは、国連が一国一票の平等な票を持っているように見えて、実は、大国の一票と、小国の一票は、決して同じでも平等でもないのだという現実だった。

 はじめ、小国でも、国連では、それぞれが一票を持っているのだから、その反対票は、「数」としての力を持つものだと思っていた。しかし、そうではなかった。そんな一票は一票の重みはなかったのである。
このことを思うとき、私は『イソップ寓話』の中の「蚊と牛」の話を思い出す。


 蚊が牝牛の角に止まって永らく休んでいたが、飛び去りぎわに、もう離れてもらいたいかと尋ねた。牛が答えて言うには「お前が来たときも気づかなかったし、離れていっても気づかないだろうよ」と(137)


ようするに、同じ「一匹」でも、それは比較にならないくらいの「力の差」の差があるのに、「蚊」は自分を「一票」だと思っているのである。

 結局、こういう形で、アメリカ・イギリスの勝利になると、先ほどの国連決議でアメリカに賛同しなかった小国は、これからきっとアメリカの支援を減らされてゆくことになるだろう。経済的な報復を受けることになるだろう。そういうことが目に見えて現れると、小国はこれからアメリカのやり方に逆らえなくなってくる。日本みたいに最初からアメリカに賛成していたら悪いようにはされないということになる。

 こういう構造があからさまに見えてしまうような国連ということになると、これから国連の信用はうんと落ちてしまうだろう。これから、そういう事態に対してどうすればいいのか、まだわからないが、これは由々しき事態である。

 私は、こういう事態が進行するのは、湾岸戦争以来、実際の戦争で、信じられないくらいの武器、つまりミサイルや弾薬や監視システムを注いできたのは、アメリカ、イギリスだったということがあるからではないかと考える。一回の戦争で、自国の武器をほとんど試し撃ちし、消化してしまう。在庫一掃である。そして、その結果、また以前よりも性能の高い新しい武器を作ることが可能になる。他の大国は、そういう戦争をしないので、武器は使わないままに古くなるし、実践で試せないから、新しい武器を構想するチャンスがない。しかし、アメリカ・イギリスは、次々に戦争を実践し、ますますハイテクの戦争のノウハウを身につけ、実践を重ねるごとに実際の実力もつける。だから、そういう実践に裏付けられる自信を、どの国も凌駕することができない。

 だから、アメリカ・イギリスは、二国だけの軍事行動にますます自信を深めてゆく。そういう仕組みの進行を、今の時点では、もうどの国も止められない、のか。