じゃのめ見聞録  No, 30

今だからこそ「遺体報道論」を
      
ー「イラク戦争」の報道姿勢への批判をこめてー

ブッシュ政権が最も恐れていること
 ブッシュ政権の今一番恐れているものは、アメリカ兵の死体の報道だということは、ここ一週間の報道を見てもよくわかります。中東のカタールの衛星テレビ局アルジャジーラという一放送局が、アメリカ兵の捕虜や死体の写真を報道したということで、アメリカ政府はやっきになって、この放送局をイラクよりの報道をしているということで非難し、アメリカの銀行にあるアルジャジーラの資産の没収までを決めたとマスコミは伝えています。そこまでして、なぜ、この放送局を恐れ、活動を停止させたがっているのか。それはこの放送局が単にイラクよりだからではありません。「兵士の遺体」のもつ重みや意味をアメリカ政府が何よりもよくわかっているからですし、そのことをわかった上で、この放送局が「遺体」の映像を放映しょうとしているからです。

 ブッシュのイラク侵略戦争を、開戦当初のアメリカ市民は70パーセントの支持率で迎えたみたいですが、アメリカ兵の捕虜と遺体の映像が放映されてから、急に支持率が下がったと言われています。誰が考えてもそうなるでしょう。「イラクに民主主義」をとか「独裁者からのイラク市民の解放」などといううたい文句を聞いているうちは、イラク攻撃が「正義の戦い」に見えていますが、そこにアメリカ兵の遺体が次々に見せられると、なぜイラクの砂漠に行って自分たちの息子が戦死しなければならないんだ、という疑問が出てきます。そうなると、そこから急に「厭戦気分」が広がってゆき、それが「戦争反対」のイメージに変わってゆくのは目に見えています。事実そうして開戦後一週間もたたないの、戦争賛成だったアメリカ市民の間に反戦の気持ちが出てきてしまっています。

 これは大変だとあわてたのがブッシュ政権でした。間を入れず、報道規制というか、報道狩りを実施し始めました。どういう報道を、か。兵士の遺体を報道する事に対してです。それは国際条約違反だとして。
マスコミの勇断を求む

 戦争反対の声は力になりうるか、などというアンケートをどこかのテレビ局がやっていましたが、むなしい企画でした。あれだけ、国連で戦争反対の声が上がり、世界の町角で戦争反対のデモがあっても、戦争を止められないのですから、そんな「戦争反対の声」が「力」にならないことはとってもはっきりしています。

 私は、テレビ局が、「中立」を装ってそんなアンケートをしたり、「朝まで生テレビ」などと称してイラク戦争の是非をめぐって議論したり、アメリカ一辺倒の日本政府の姿勢を批判するだけの姿勢を、とっても冷ややかに見ています。というのも、マスコミは、自分たちの一番できることをしないでおいて、アメリカや自国の政府の批判ばかりしているように思えてならないからです。

 もっと、マスコミはマスコミ自身の姿勢を批判すべきではないのか。それは、各マスコミ・テレビ局が、自分たちのできることをするということです。それは、こんな時にこそ、本腰を入れて戦争下にいる兵士や一般市民の「遺体」を放映するという勇断です。
 「遺体」を放映してほしい

私は今回アルジャジーラの放映ではじめてアメリカ兵の「遺体」を見ました。血の気が一気に引きました。これが「戦争」と呼ばれているものの「中身」なんだとわかりました。あのとき私の中で一気に百パーセントの厭戦感が生まれました。「遺体」の示す恐ろしい力、です。でもそれが「遺体」の私たちに訴えている最大のことではないでしょうか。アメリカの市民が、この遺体の放映を見て厭戦気分を高めたことは自分の経験からもすぐにわかりました。

 そんなに力をもつ「遺体の報道」が、テレビでは全く問題にされずに、依然と「戦争反対の無力」とか「マスコミの無力」などというレベルの話をくり返しています。なんで、マスコミが無力なんですか。たった一枚の遺体の写真を載せるだけでも一気に、本気の戦争反対の気分を広めることができるのに、です。でも、そういうことはマスコミは一切しません。なぜなら、「遺体報道」は「禁止」か「協定違反」だからと思って自主規制してしまっているからです。そういう報道をすると政府ににらまれてしまうからです。

 こうした政府よりの「遺体隠蔽」の報道を続けることは、間接的にアメリカ政府を支援していることになっています。そういうマスコミのしている実際の姿は、日本政府やアメリカ追従の姿勢ばかりです。

 私はマスコミが、日本政府をあまりにもアメリカよりだと批判するなら、何で政府やアメリカ支援になる「遺体報道規制」を自主解除しないのか、と感じます。自分たちの姿勢は批判しないで、よその批判ばかりをしている全く口先だけの「正義の味方」がちらちらすかし見えて、マスコミよお前も戦争支援者じゃないかと、いつも思ってしまいます。

 批評家たちの間でも「遺体報道」のテーマを積極的に持ち出す人を、私はあまり見たことがありません。それだけ、「遺体報道」を主張することは、遺体を冒とくし、遺族の方々に失礼をすることになることがわかっているからです。自分の身内や親友が無惨な遺体になっている姿を報道され、世間の好奇の目にさらされることを考えてみろ、それがどれだけ、死者にひどいことをすることになっていることか、想像してみろ、と。ですから、遺体報道をうんぬんすることは、無意識にタブー視されているんだと思われます。

 だからといって、何百人、何千人の兵士が死んでも、その映像は失礼だから見せなくてもいい、ということになるのでしょうか。私はむしろ、見せない方が失礼になっているんじゃないかとずっと感じています。私の感じ方はおかしいんでしょうか。特に、アメリカ、イギリスの兵士の死者は、星条旗に包まれて「美しく」映し出されるのに、その何百倍、何千倍ものイラクの兵士の焼け焦がれた死体は、砂漠の砂にまみれたままなのではないでしょうか。彼を待っている家族がいるのは、アメリカの兵士と同じじゃないですか。その惨めな姿をどうしてマスコミは自主規制をして報道しないのでしょうか。その映像こそが、戦争反対を進めるもっとも大きな力になり得るのに。

 私は、今だからこそ「遺体報道論」を、と私は訴えたいと思います。それをマスコミで議論してほしい。「遺体報道」を抜きの「戦争反対議論」なんて、ただ視聴率をとるためだけのマスコミの「番組仕事」になっているだけじゃないですか。私は、どこかで、政府やアメリカの圧力に反して、「遺体」の放映に踏み切ってほしいと願う。マスコミのできる唯一の力がそこにあると思うからです。そういう自分たちのできることを棚に上げておいて、ただ、政府批判、アメリカ批判、国連無力論などを、他人事のように続けるのは、本当にやめていただきと願う。
2003.3.30


 「遺体論」はどうしたら可能なんだろうか

 昨年の秋は「遺体論」の可能性について少し思いを巡らせていました。アフガニスタンでの多くの「遺体」が見えないことからの自問からでした。

 あらためて死と死体と死者は違うんだという思いを強めています。家族は生者が死者になってゆく過程を見ているのですが、医者たちは生者が死体になってゆくのを見ています。死者は、死体という姿に変わりながらも家族の心の中では死者として連続して生きています。

 死体と死者は違います。死体は死んでいるのですが、死者は不思議なことにどこかで生きているのですから。

 今日私が触れたいと思っているのは、昨年の「9.11同時多発テロ事件」の後の「アフガン戦争」に感じた話題のことです。それは、多くの誤爆を含む空爆で亡くなった現地でのたくさんな兵士や住民の「遺体」の姿が全く報道されていないことへの疑問についてです。私は秋に二つの週刊誌で、二つの遺体の姿だけを見ました。一つはタリバン兵なのか、首を切りとられていて、それを自慢げに持ち上げている兵士らしき男の写真です。もう一つは、道ばたに死んでいる兵士で、屈辱的にズボンが足首まで脱がされていました。私が9月から12月までに見た「遺体写真」はこの2枚だけでした。

 結局1枚目は「フライデー」が載せたもので、学生達がすごい写真が載っていると騒いでいたので私も買ったものです。つまりこれは全く扇動的効果を狙っただけのひどい販売目的の写真でした。もう1枚は報道写真でした。

 でも、どちらにしても「遺体」の写真はぞっとするもので、その悲惨な姿は、戦争の残酷さを一瞬にして伝えてくれるものでした。どんな言葉の束よりも、「遺体」の写真は、戦争への嫌悪感をかき立ててくれると思います。でも、遺体の写真の掲載は、ほとんどの報道機関ではタブーなんですね。理由はもちろん私にもわかります。「遺体」の写真は、好奇の目で見られることがあって、自由にすると交通事故や殺人現場の「遺体」写真を好んで撮ったり載せたりする雑誌が横行するからでしょう。

 東南アジアにそういう「遺体」ばかりを載せるインターネットのサイトがあって、中高生がこっそりそういうサイトを探してアクセスしているという話をNHKのテレビで見たことがあります。裸やセックスの写真と共に「遺体」の写真は、人が好奇心に駆られて見たがる物の一つだということはよくわかります。

 だから、戦争の時の「遺体」の写真は御法度になっているのでしょうか。もちろん、実際にはそういうことではないのです。10年前の湾岸戦争では、砂漠を敗走するイラク軍に向けられた多国籍軍の空爆で、死体街道と呼ばれるくらい累々と兵士の遺体が続いていたのに、それを撮影することは許されなかったと言う有名な話が残っています。そういう写真が報道されると「戦争反対」を叫ぶ人が増えることをアメリカの軍部は恐れていたからです。だから、湾岸戦争でもまったく死体のない戦争と呼ばれてきました。

 こんどのアフガン戦争でも全く事情は変わりません。戦争だからたくさんな人が死んでいるのに、死んだ人の数も写真もまったくといっていいほど正確には報道されません。NHKが湯水のように時間を使って報道してきたのは「アメリカの最新の兵器のすごさ」と、「ビンラディン氏のゆくえ」ばかりでした。口では戦争のひどさを言いながら、実際にはアメリカ軍の「戦果」や「戦況の進展ぐわい」ばかりでした。

 何が欠けていたんでしょうか。もちろんたくさんなことが欠けていたんだと思いますが、なかでもちゃんとした「遺体論」とでも呼ぶべきものがやっぱり欠けているんだということを私は痛感しました。もっと深い「遺体論」がいるんじゃないかという思いです。一律に死体の写真を禁止するのではなくて、無念に戦争で殺されたりする人々は、遺体として訴えているものがあるはずだと思えます。だから「報道写真」として、あるいは「報道倫理」として、その悲惨さ、残酷さを、人々に伝える論議があってもいいのではないか、という思いです。

 事実、過去には、第二次世界大戦、ベトナム戦争、ユーゴスラビアでの内戦、アフリカでの他部族大量虐殺の内戦などにおける、山と重なり合う遺体を撮した報道写真が公表されてきました。多くの人はそういう報道写真を見て、あらためて戦争のむごさを思い知らされていたと思っています。

 でも、実際には病院で解剖される「死体」と、交通事故の写真と、飛び降り自殺の写真(私もずっと以前、ビルから飛び降り自殺し、路上に横たわっている女優、岡田有希子さんの写真を「フォーカス」で見たことがありました)、非情な戦争で殺される人々の「遺体」は同じものではないんですね。私たちは「死体」と呼ばれているものから「遺体」と呼ばれるものの間に、無意識のうちにとってもデリケートな区別を立てているからです。でも、そういうニュアンスの違う「死体ー遺体」の問題について、哲学でもちゃんと論じられたものを見たことがありません。死体を見せることは冒涜だとか、ネクロフィリア(死体愛好者)を増やすばかりだとか、そんな粗雑な議論だけで禁制を敷き、結果的には戦争を仕掛ける権力者につごうのいい世論作りに加担してゆくことが多かったからです。 私は安易な死体報道合戦などを求めているわけではありませんが、「倫理としての遺体」の問題は、「脳死」や「臓器移植」の抱える倫理の問題におとらない問題を抱えているんじゃないかと今思っています。そういう意味での「遺体論」の可能性について、どこからか考えてゆけたらと今思っています。
                           2002.1.1記


追記
 数日前の毎日新聞に、昨年の昨年のアフガンの日本の報道で最も欠けていたのが悲惨さを伝える記事だったというのを読んで、同じことを感じている人がいたんだと思いました。