じゃのめ見聞録  No, 27

「セクハラ」について



鶴見俊輔さんに、「わい談について」1981という心に残る短いエッセイがあります。

 私はわい談をしません。というのは、わい談に自信をもてないからしないので、わい談にたいして理想をもっているからです。(略)
 戦争中に私は海軍にいて、女性について、だれがこうだとか、感触や気分についてではなく、自分といっしょに寝た女性をはずかしめるような話しぶりをきいて、いやになりました。自分をたかく見せるためで、男同士のあいだでのつよがりで、その底にはてれもあったのでしょう。(略)
 こういう話に私がのらなかったのは、私がまじめだったからではありません。
 人を傷つけるようなわい談ではないわい談がいいと思うのです。そういうのになかなかあたらず、そうかといって、自分にもできない、それだけの器量がないというふうで終わりました。(略)
 わい談はむずかしいです。しかし、ある種のわい談を保つことをとおして、いまの国家指導者の軍国主義再建の努力に対してゆくことが私の理想です。
『日常生活の思想』筑摩書房


 鶴見俊輔さんらしいというか、鶴見さんならではの人柄が伝わってくるような、エッセイです。なんといっても、心に残るのは、「私はわい談をしません」という断言ではなく、「わい談に自信をもてないからしない」という言い回しです。
 私自身は「お笑い」や「わい談」は面白がる方ですから、そういうものはあって当たり前という感覚があって、あまりきちんと考えたことはなかったのですが、最近、そのことで考えなくてはならない出来事にぶつかってしまいました。
 男の鈍感さというか、無神経さというか、相手の女性の立場を十分に考えることができないままに、まわりの女性たちも面白がるものだと思いこんで、すました顔で「わい談」や「下の話」をする「男」がいるということについてです。
 わい談やHな話は、それが「話」である以上は、それを聞き合うもの同士に共感がないと受け入れられません。お酒が入ると、男同士や女同士の間で、わい談に花が咲くときがあるでしょう。そして、もちろん、男女が同席の場ではなおさら、そういう「Hな話」で場が盛り上がることがあるでしょうし、意図して場を盛り上げるためにそういう「Hな話」を持ち込むこともあると思います。それで、「大笑い」が起こり、照れや苦笑の中で、場が和むという効果の生まれることもあると思います。でも、そういう「下ネタ」が効果があるのも、そこに集まっている人の間に、そういう話を受け入れる「共感」というか「雰囲気」がないと、実際は逆効果になることが多いものです。
 問題は、私を含め「世の男ども(私のような下品な男どもはという意味ですが)」が気が付かないのは、「相手の気持ち」がうまく読めないのに、かってに自分だけが面白がってそういうことをする場合です。
相手との「共感」がないのに、「下ネタ」や「わい談」をすることを「セクハラ」と呼ぶのですが、そのことがわからないやつがいる、ということが今回考えたいことなんです。

 鶴見俊輔さんがとっても鋭く言われている、「わい談をしないのは<わい談>に自信をもてないから」というのは、実は、そのことにきっと関係しているんだと思います。鶴見さんほどの方だから、「わい談」の良さなんてものは、百も承知されているのだと思うのですが、「それをちゃんと言うのはとってもむずかしい」と感じてこられたわけです。それは、「わい談」が、場を和ませるどころか、「しばしば誰かを傷つけるものになること」をよく知っておられたからだと思います。哲学者、鶴見俊輔さんならではの「やさしさ」の感じ取れる反応だと思います。「わい談」なんてめったに哲学のテーマにはならないのですが、ふだん「わい談」などをされるようにはお見受けできない哲学者片山先生にも、ぜひ一度お聞きしてみたいところです。

 ところで「わい談」といい「下ネタ」といい、言葉ではそういうふうに言っているものは、実際にはどういうものをイメージしたらいいのかと聞かれるかもしれません。私は、人の身体に関係する話は、基本的にはすべて「わい談」に転化しうると思っています。ですから、かつて女性の「スリーサイズ」を聞くことが「セクハラ」になるとされたとき、何でそんなことが「セクハラ」になるんだと息巻いた男達がいたのですが、それは男達が普通の会話の中で、「あなたのチンポコの長さと太さをおっしゃってください」などと聞かれることの気分の悪さを想像すればすぐにわかりそうなことだった、のにもかかわらず、です。男はそんなことを急に聞かれると、「なんでそんなことお前に言わにゃあならんのだ」ときっと憤慨すると思います。それと同じように、女性も憤慨するんだということがわからない鈍感な男が、かつてはわんさといた時代があったわけです。
 そういう意味では、「髪の形」や、「化粧」や、「服装」や、いわんや「下着」のことまでを、異性のいる中で「話題」にするのは、「わい談」になったり、「人を傷つけ」たりする可能性があるということです。
 じゃあ、異性の「身体」に関することは何も喋ることができないじゃないの、せっかく髪の形を変えたり、おしゃれな服を着てきているのに、誰も何も言ってくれないのは、さみしいということにもなりかねません。でも、そういうことを、ここでいっているわけではありません。私が言っているのは、人の身体に関係する話は、自分では誉めたつもりで言っているようなことでも、ヘタをしたら遠回しに「わいせつなこと」を言っているかのよに受け取られる可能性があるということを、言っているわけで、人の身体に関係する話が、ただちに「わい談」であるというような愚かなことをいっているわけではありません。




 なぜ、そういうことをここで「問題」にするのかというと、良好なときの人間関係の中では、何気ない眼差し、何気ない立ち振る舞い、何気ない言葉使いとしてあったものが、人間関係が薄れると急に、そのひとつひとつの眼差し、立ち振る舞い、言葉使いが、自分を気持ち悪くさせ、「セクハラ」として感じられることが起こることについて考えたいからなんですね。
 セクハラ防止マニュアルには、しばしば、「セクハラ」となる言葉使いや行動が列挙されていますが、私は、そういう言葉使いや行動そのものが「セクハラ」だと考えたことはありません。なぜなら、ある人がしたら、それは「嫌」ではないのに、別な人がしたら「嫌」に感じられて、「セクハラ」になるとしたら、そこには、言葉使いや行動だけでは「セクハラ」かどうかは決まらない要素のあることがわかるからです。、
 つまり、そういう「言葉使いや行動」が、はじめからタブーでセクハラなのではなくて、気心がしれた仲間内では全然OKなのに、そういう気心がしれない中で、そういう「言葉使いや行動」が持ち出されることが「問題」なわけなんですね。

 ここではきっと、相手との「必要な距離」が「問題」になっているんだと思います。気心が知れる人というのは「近づいてもらってもいい人」のことです。でも、「嫌」な人には「近づいて欲しくない」と感じてしまいます。確かに、相手との「距離」はあっても、「身体のこと」や「卑猥なこと」をいわれると、その人に必要以上に近づかれて、言葉でもって自分に「触れられた」と感じてしまうことが起こります。そしてそのことが「セクハラ」と感じさせることもありえます。
 ここには、どうしても集まる者同士の、「好き嫌い」の感情が関係してきます。お互いが気に入るもの同士が集まった場では、「下ネタ」や「わい談」が「楽しい話題」になるのに、同じことを気に入らない人に言われると、それがたとえ「髪の形」一つでも、気持ち悪く感じられるということが起こります。なぜ、そんなことが起こるのか。それは、何気ない言葉でも、その言葉が「からだ」にまつわる言葉なら、その言葉を通して、自分に「触れられている」と感じてしまう所があるからなんですね。だから、逆に好きな人になら、いくらでも「Hなこと」を言ってもらっても平気というのがあります。むしろそういうことを言ってもらえるのを楽しみにしている所もあります。そこでは、そういう言葉を通してその人に触れてもらえる感じがするからです。
「わい談」の楽しさ、面白さには、きっとそういう普段触れあうことのできない距離感を縮め合う力があるからだと思われます。

 しかし、距離を縮めて欲しいと思っている相手との「わい談」ならいいけれど、距離を縮めてもらっては困る相手のしてくる「わい談」は、結局は気持ち悪くて仕方がないということになり、それはやがて「セクハラ」と感じ取られることになってしまいます。 では、世の中には、「人に好かれる人」と「人に好かれない人」がいるということになるんでしょうか。もし、そうだとしたら、「人に好かれる人」は、どんな「わい談」を言っても好かれるのに、「人に好かれない人」はどんな「わい談」をいっても「セクハラ」と受け止められるということになってしまいます。それでは、不公平ですよね。男前や美人が「わい談」を言ったら許されて、不細工なおっさんやおばはんが、同じことをいったら「セクハラ」だと言われるんだったら、不細工派としてはたまったもんではありません。
 私は、そういう先天的に「人に好かれる人」と「人に好かれない人」がいるわけではないんだと思っています。「わい談」を面白がる可能性なんて誰にでもあるわけですが、だからと言って、誰もが面白がって「わい談」をしないのは、不用意にそれをすると、不用意に誰かに触れてしまいそうな気がするからであり、また、それと同じように、「わい談」に乗ることで必要以上に自分に触れられることを嫌だと思う気持ちがあるためではないかと私には思われます。そして、そういう関係に配慮が及ばない人のことを、ふつうは「人に好かれない人」と言ってきているんじゃないでしょうか。男前や美人でも、そういう配慮をしない人は「人に好かれない」と思いますし、そういう人のいう「わい談」はいやらしく聞こえるのではないでしょうか。「いやらしい」と言う意味は、不用意に人に触れたり、触れさせたりするので気持ちが悪いという意味です。

 私は以前、上野瞭先生の『三軒目のドラキュラ』を論じた少し長い目の文章を通信に載せたことがありました(1997.4、28号)。そこで、この本は比類のないおそろしい本だと書いていたと思います。この作品で問題になっていたことを私は「インフォームド・コンセント(説明と同意)」という言葉で解説していたのですが、男と女、老いる者と若い者、介護される者と介護する者との関係で、説明や同意なく、接近したり関係を持とうとするのは、「セクハラ」と紙一重であり、それはまた痴漢や強姦のような「犯罪」とも地続きのものであることを、川端康成の『眠れる美女』との比較を通して見てきたと思います。
 上野先生は、ある世代の人というか、戦時中の世代の人の中には、相手との関係を「説明や同意」の積み重ね=やりとりで進めることに不器用というか、そのことの大事さを本当には分かっていない人がいるんではないか、というようなことを考えておられたような気がします。
 こうした「説明や同意」なく関係を持とうとする行為の中に、「ストーカー」や「無言電話」があります。それは、嫌がらせなのか、相手と近づきたいがための仕業なのかはわかりませんが、どちらにしても、「説明や同意」の努力をしないで相手につながろうとすることで、それは「関係作り」に行き詰まった人間の「悲しい性」のなせる技としかいいようがありません。
 おそらく上野先生の作品は、そういう人間の「おぞましさ」「闇」ををじっと見つめることによって成り立っていたように私は感じています。