じゃのめ見聞録  No,26

第二弾 『心のノート 3年4年』異論 


「心」というものを「ノート」のようにイメージしていいのだろうか。「心のノート」というような名前のつけかたは、「心」というものを、書き込んだり消したりするようなものとしてイメージさせることになりはしないか。「心」は「私の中」にあるのではなく、まわりの人たちと「交渉」し「やり取り」することの中にあるものではなかったのか。

小学校3年4年は、大きな変革期だ。最も大きな変化は「比較する力」が出てくる所にある。自分の家と友達の家、自分の親と、友達の親と、自分のクラスの先生と、隣のクラスの先生と。友達の家は一戸建てなのに自分の家はアパートだとか、友達のお母さんはいつもきれいにしているのにとか、隣のクラスの先生は楽しくていいとか・・。そんな、比較し、批判する力をもった小学3年4年に向けて、『心のノート3年4年』は何を語ろうとしているのか。



 『心のノート3年4年』の全体は4つのブロックに分かれている。
@ かがやく自分になろう A ひととともに生きよう
B いのちを感じよう C みんなと気持ちよくすごそう
最初の@「かがやく自分になろう」では、「シドニーオリンピックの女子マラソンで、金メダルにかがやいた高橋尚子選手」という見出しのもとに、彼女のゴールして日の丸の旗を掲げている写真が載せてある。だから「かがやく自分」というのは、そういう「金メダルにかがやく」ようなイメージからとられているんだということがわかる。「今よりよくなりたいという心をもとう」という見出しのページがそのあと続く。そうなるためには「目標を持って」「続ける」ことが大事とされる。「やりとげられたら金メダル」というページがそれに続く。そうか「金メダル」が取れる人が「かがやく人」なんだということがよくわかる。

 おそらく「比較する力」が出来てくるから、一等になるとかビリになるとかということの意味は、1年や2年の時よりもっとリアルにわかるようになり、こういう「金メダル」がよくて、ビリはだめという思想は、この時期からはとてもよくわかるようになる。だから、そういう思想のさらなる強化として「かがやく自分になろう」のフレーズが使われる。

 さらにこのブロックでは「勇気を出せるわたしになろう」というページが付け加わる。「かがやく自分」から「勇気を出せる自分」へ、という展開だ。
 勇気ある人とはどんな人でしょう? という質問が来て、サンプルが上げられる。
ア、いじめている友達に「やめなさい」と注意した人。/イ、友達に「弱虫」と言われてあぶないことをした人。/ウ、自分とちがう考えをもっている上級生に、自分の意見を言った人。/エ、わからないところをそのままにしないで先生にしつもんしたひと。/オ、電車の中でお年寄りに席をゆずった人。

もちろん、この通信をお読みのみなさんには、どれが「勇気のある人」なのか「答え」はすぐにピンとくるだろうと思われる。でも、私には、こういう(ア)から(オ)までの例が、なぜ「勇気」というような物差しで測られる必要があるのか、そこんところがピンとこない。

 「比較する力」が出てくる3年4年にとっては、ともだちとの力関係や、どうしたらかっこいいか、かっこ悪いか、そういう打算的な思考がよくできるようになってきている。そういう自分の打算というか、自分の損得を勘定に入れて行動ができることが、この頃のとっても大事な成長なのに、ここで言われる「勇気ある人」というのは、まるで「打算的に考えない人」のことを言っているかのようだ。

 つづけて『ノート』は「なぜ勇気を出せないのだろう」と問いかけ、「正しいとわかっていても、なかなか実行できない自分。なぜ、正しいと思ったとおりのことができないのでしょう」とたずねている。そして、その理由として「こんなことを言うと、みんなにどう思うかなと気になるから」とか「反対すると、仲間はずれにされそうで、心配だから」とかいうような「みんなの声」を例にあげている。
「打算や損得の考え」を持ちはじめるのだから、当然、そう考えることになるだろう。
でも『心のノート』は、「どうすれば、この気持ちを乗りこえられるのだろう、考えてみよう」と提案する。「打算的に考えるのはよくない」というわけだ。そして「わたしの勇気はどれくらい」とか「自分に正直になれば心はとても軽くなる」と説明する。

 「自分に正直になる」とは、状況を比較し、これから起こることが自分に有利か不利かを考え、できるだけ自分に有利になるように立ち回りたいということであり、それが「自分に正直になる」こととなる、はずなのだ。ところが『心のノート』は、そういう「打算」や「損得勘定」を何かしら悪いことのように見なしているような気がしてならない。いったい、その他に「自分に正直になる」なり方があるのだろうか。
 でも、この章の最後は「正直な人でいるためのひけつ」「正直な人をさがそう」というページがくる。どんな否決、じゃなくて「ひけつ」があるというんでしょうか。




私が『心のノート3年4年』で最も気になったのは、「美しい心」という言葉を使って説明をするページがたくさんあることだった。こんなふうな使われ方である。

「人の心の美しさにふれて」「人の美しい心にふれて心が動くのは、わたしたちの心の中に美しい心があるからです」「美しい心をさがしてみよう」「家の人に、美しい心をもった人のお話を聞いてみましょう」「図書室の本や国語の教科書などの中から、人の心の美しさをえがいた本を選んで、たくさん読んでみましょう。そして、読書カードにまとめてみましょう(例としてマザーテレサ)」「美しいものに感動する心を」「美しい心に出会うと、わたしたちの心はさらに美しくなります」「みんなのために流すあせはとても美しい」「美しい自然は、あなたの心も美しくします」

この『ノート』の書き手は、よっぽど「美しい心」というのが気に入っているようなのだが、いったいここで言われている「美しい」というのは、どういう状態のことを言っているのか。「美しいなんとか」という表現を好んで使うのは、戦前の人々に多い。川端康成のノーベル賞講演が「美しい日本の私」(『一草一花』講談社文芸文庫に収録)であったことは有名だが、これを読んでも、何を「美しい」と言っているのかはチンプンカンプンわからない。
 おそらく、この「美しい心」を讃えたくてしょうがない書き手は、「嘘をつかない心」「正直な心」いわゆる「清く正しい心」を「美しい心」と言い換えている節がある。「美は善なり」と昔カントが言ったというような話を、きっとこの書き手は想定しているのだろう。「善い行いをする人が美しい人である」というように。「美」と「道徳」を結びつける発想がそこにある。
 そうなると、私が気になるのは、「美しい」という言い回しを使う人は、その反対の言葉をどういうふうにイメージしているのかということである。「汚い」ということなのか、「汚れている」ということなのか、「ぶさいく(不細工)」ということなのか、「壊れている」ということなのか、「乱れている」ということなのか、「醜い」ということなのか、「悪い」ということなのか、「嘘つきで不誠実」ということなのか、「利己的で、打算的」ということなのか・・・。それらをひっくるめて「美しくない」ということなのか。
 しかし、子どもたちは「美しい」という言葉を、複雑には考えられない。「美しい花」とか「美しい女優さん」とかいうのが、ふつうに使う「美しい」の意味であって、それは「きれい(綺麗)」という言葉と紙一重だ。だから、「美しい花」とか「美しい女優さん」というのは、「きれいな花」「きれいな女優さん」という意味に、ふつう子どもたちは受け止めている。となると、そういう「美しい=綺麗」を感じれば、当然「美しくない花」「美しくない女優さん」、は「きれいでない花」「きれいでない女優さん」ということになり、それは「よくない」「きたない」ということにならざるを得ない。

 事実『ノート』には、すべての花は美しい、すべての自然は美しいとは言わない。「美しい自然」「美しい花」があるというわけだ。じゃあ、「美しくない自然」はどう考えるのか、「美しくない花」はどう考えるのか、「美しくない女優」はどうしたらいいのか、「美しくない私はどうすればいいのか」、そういう疑問がでてくるのではないか。そうすると「美容整形」のような発想がでてくることになる。ひたすら「美しい」を求めると、かならずそこに「美容整形」の発想は出てくる。「心の美容整形」の発想が。
『ノート』の中に、こういう児童の作文が紹介されている。

家族みんなで『千と千尋の神隠し』という映画を見に行きました。「カオナシ」(か面の男)が、千に両手いっぱいの黄金をあげると言いました。でも、千は、「いらない」と首を横にふりました。黄金より、自分を助けてくれた「ハク」(川のせい)のいのちのほうが大切だと思ったのです。
 千の心は美しいと思いました。
 千のおかげで、みんなきれいな心になっていきます。心が美しい人のことがよく分かりました。映画が終わり、父や母にわたしが思ったことを話しました。すると母は、「美しい心に感動できるのは大切なことなのよ」と言いました。千のような美しい心をもった人になりたいと思います。
(児童作文より)

 戦時中の、学徒疎開中の作文かと錯覚したほどの「名文」である。「千の心は美しいと思いました」なんて今どきの子どもが本当に書くのかよ、と思ったし、「千のおかげで、みんなきれいな心になっていきます。心が美しい人のことがよく分かりました」なんてことをほんまにお前は思ったんかよと思ったし、さらに、「すると母は、「美しい心に感動できるのは大切なことなのよ」と言いました」なんてのたまう「母上さま」が今どきホントにいるのかよ、と思ったわけだ。こんな作文、ヤラセじゃねえの、と。アニメ『千と千尋の神隠し』を見て、「千のような美しい心をもった人になりたいと思います」なんて虫ずが走るようなことを、どうしたらしゃぁしゃぁと書くことになるんだと思うわけだ。もっと、面白かったことがいっぱいあったんじゃあないのと、そういうことを書きゃいいのにと。でも、「美しい心」をもってしまった子は、きっともう「変なこと」は書けなくなるんだろうね。

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ちなみに私は学生時代に『グロテスクなもの』(W・カイザー 法政大出版局1968)という本に出会って、深い感銘を受けたことがありました。この時はじめて「グロテスク」と呼ばれて軽蔑されてきたものの見方というか真実に触れた気がしました。「美しい」ものの良さしか知らない人にぜひこの本を紹介しておきます。
それから、これも学生時代に読んで、暗記してしまっているような小林秀雄の言葉も思い出します。「美しい<花>がある。<花>の美しさというものはない」(当麻)。当時は、なるほどと思って深くは考えなかったけれど、よく考えてみると、おかしな言い分であるようにもみえる。反対じゃないのかと。どんな形の花でも、よく見たらその自然の作りの美しさに驚かされるわけで、「美しい花」というようなものがどこか「外」にあるわけではなくて、それを見つめる人の見つめ方によって、その花が「美しい」とされたり、「綺麗でない」とか言われたりするだけなのではないか、と。